闘病生活二十数年の年月の重みに比べたら、その最期はあまりにも唐突で、現実のこととは思えなかった。長い年月の折々で、その日を迎える覚悟もそれなりに持った。しかし、稲田さんにとってのリアルは、「覚悟」よりも、今日を生き、明日を迎える妻の命の積み重ねのほうだった。
茫然自失となった稲田さんはその後の3カ月間をどうやって暮らしていたのか、ほとんど記憶がない。顔から表情が消えて、うわごとばかりつぶやいている稲田さんの様子に、息子は「親父、ボケたか?」とたいそう心配したという。
そんな稲田さんを現実の世界に引き戻したのが、トライアスロンの大会出場だった。妻に内緒でトライアスロンの大会に初めて出場したのは、妻が亡くなる3カ月前のこと。
「トライアスロンへの挑戦を伝えたとき、妻は寝たきりのベッドで『パパが一生懸命になれることを見つけて、私はうれしい。私ができないぶんもがんばって』と言ってくれたんです。僕は妻の言葉がうれしくて泣きました。だから、やっぱりトライアスロンをがんばらなきゃいけないなと思ったんです」
偶然が重なった妻との出会い
新卒でNHKに入局し、記者として飛び回っていた稲田さんが妻と結婚したのは27歳のとき。彼女とは取材先の和歌山県白浜海岸で出会った。観光バスのバスガイドをしていて、稲田さんが取材した民謡コンクールに出場していたのだった。
「ものすごく声がよかったけれど、歌がまったくだめ(笑)。アンバランスなところが印象に残りました」
その数カ月後、再び和歌山県に新しくできた温泉施設を取材することになり、観光バスに乗ったら、偶然、バスガイドが妻だった。
「この前、お会いしましたね」と話しかけると、「私も稲田さんを覚えています」とはにかむ。やっぱりいい声だった。
数カ月後に初めてデートらしいことをして付き合いが始まり、2年後に「結婚してくれないか?」とプロポーズした。
「妻は本当にやさしくて人を思いやる気持ちを持っている女性。結果的に僕が惚れちゃったんですね」
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