結婚後の新居は、現在も暮らす千葉県八千代市にかまえたが、稲田さんは転勤が多く、トータルで8年間の単身赴任をくり返した。正直、家庭のことは妻に任せっぱなしだったかもしれない。
妻は単身赴任先にもよく会いに来てくれて、一緒にテニスを楽しんだり、大学時代に山岳部だった稲田さんの手ほどきを受けて、山に登ったりした。
「ハイキング程度の山登りでしたが、初心者の妻のほうが岩場なんかもパパパッと登っていくんです。僕は仕事が忙しくて万年運動不足だったから、『おーい、ちょっと待ってくれや』なんて叫んだりしてね」
妻の病気が見つかったきっかけは、自転車で転倒したことだった。
「転倒してできた傷口の出血が止まらないため血液検査をしたところ、血小板減少性紫斑病という難病を発症していることがわかりました。血小板が減少し、出血しやすくなる病気です。すぐに大きな病院に変えて、しばらくは通院治療をしていましたが、だんだん病状が重くなり入退院をくり返すようになりました」
定年退職後の人生は介護を選択
発症当時も稲田さんは単身赴任中だった。介護保険制度もなかった昭和の時代。稲田さんは少しでも妻のそばにいられるように、自宅に近い千葉の支局に異動させてもらって妻の闘病を支え続け、定年を迎えた。
65歳まで定年を延長する選択もあったが、稲田さんは自宅で療養する妻の介護に専念するため、迷うことなく60歳で退職する。
こうして60歳から妻の在宅介護の日々が始まった。
単身赴任の8年間は自炊していたので、食事作りはもちろん、掃除、洗濯、ごみ出しといった家事全般は苦痛ではなかった。料理教室に通って病人食の作り方を覚えて、妻のために料理をした。自分の身のまわりのことも自分でできる。
その一方で、「自分の給料がいくらなのかも知らなかった」という稲田さんは、退職後、妻がコツコツと貯めた預金や老後に備えた各種の保険などがあることを初めて知る。
「妻も仕事をしていたのに、僕は家のことは全部妻に丸投げしていたんです。40年のサラリーマン生活を全うできたのは、妻が僕に仕事だけをさせてくれたから。感謝しかありませんでした」
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