虎に翼のモデル「三淵嘉子」心に残る裁判長の一言 「あなたが女だからといって特別扱いしない」

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全国49カ所に家庭裁判所ができたのは、昭和24(1949)年1月1日のことである。新民法のなかで男女平等がうたわれたことで、当時の家庭裁判所には、家庭でトラブルを抱えた母親が殺到した。

「駆け込み寺」のようなカオスのなかで、相談者1人ひとりに向き合うには、潤四郎や嘉子のような明るいキャラクターが欠かせなかったことだろう。

女性進出を阻む男性の「必要以上のいたわり」

事務方としてそんな密度の濃い経験をした嘉子は、昭和24(1949)年8月、ついに東京地方裁判所の判事補となる。

すでに同年4月に、日本における女性初の判事補として、石渡満子が東京地方裁判所に赴任しており、嘉子はそのあとに続いたことになる。ちなみに、同じタイミングで門上千恵子が東京地方検察庁検事に任官。日本における初めての女性検事も誕生した。

この昭和24(1949)年以降、毎年のように1~2名の女性裁判官が任命されることになり、東京のみならず、地方の裁判所にも女性が配置されるようになる。

だが、裁判官の人数自体が少ない地方では、必ずしも女性裁判官は歓迎されなかった。そこには「男性側のいたわり」があるということに嘉子は気づく。

具体的には、残忍な殺人事件や、強姦事件を女性裁判官には担当させづらく、やはり女性裁判官は男性裁判官と同じようには扱えないという雰囲気があったという。

これは何も裁判官の仕事に限らず、弁護士や検察官であっても同様だとし、嘉子は「私の歩んだ裁判官の道」で、次のように分析している。

「女性が職場において十分に活躍できない原因の一つに男性側の女性への優しいいたわりから来る特別扱いがある。裁判官のみならず検察官、弁護士の場合でも女性に対しては初期の頃は男性側が必要以上にいたわりの心遣いをし、それが女性法曹を扱いづらいと思わせていたのではなかろうか」

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