虎に翼のモデル「三淵嘉子」心に残る裁判長の一言 「あなたが女だからといって特別扱いしない」

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同年6月、嘉子は民事部の民法調査室に配属。民法の改正作業を手伝うことになる。新民法の草案を読んだときの衝撃を、嘉子はこんなふうに語った。

「女性が家の鎖から解き放され、自由な人間として、スックと立ち上がったような思いがして、息をのんだものです」

最高裁判所は昭和22(1947)年5月に設立され、8月には本格的に発足。だが、嘉子はまだ現場の裁判官にはなれず、引き続き事務方として経験を積んでいる。

「家庭裁判所の父」とともに家庭局を盛り上げる

昭和22(1947)年12月22日、日本国憲法の基本原理に基づいた改正が行われて、新民法が成立。年が開けて、昭和23(1948)年1月から施行されることになると、嘉子は司法省から最高裁民事局へと移っている。

さらに、最高裁判所事務総局に新設された家庭局の事務官も兼任したようだ。家庭局の初代メンバーに、嘉子は「事務官」として名を連ねている。家庭局長はのちに「家庭裁判所の父」と呼ばれる宇田川潤四郎が務めた。

虎に翼 三淵喜子 佐田寅子
家庭裁判所(写真:ペイレスイメージズ 2 / PIXTA)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』では、この潤四郎をモデルにした人物として、滝藤賢一演じる多岐川幸四郎が登場し、異彩を放っていた。鼻下にチョビヒゲを生やしていたことや、演説が得意で何かと熱弁したことは史実どおりで、実際の潤四郎もそんなユーモラスな男だったらしい。

もっとも嘉子もムードメーカーという点では、負けていなかった。嘉子の死後に刊行された追想文集『追想のひと三淵嘉子』には、多くの関係者による嘉子との思い出が綴られている。そのなかで同僚だった八島俊夫は、嘉子の様子をこう書いている。

「和田さんは、いつも大きな風呂敷包みを持って通勤しておられました。当時、小さな子供さんをかかえての生活は大変だったようですが、そんな素振りは言葉にも態度にも何一つ現されることなく、あの可愛いえくぼのある丸ぽちゃの顔に、いつも微笑みをたたえながら、よく動いておられました」

仕事後に、最高裁家庭局のメンバーで懇親会が開かれたときにも、嘉子はよく顔を出した。干物などをあぶりながら、焼酎を分け合っては、交代で歌を歌うのがお決まりの流れだったとか。なかでも嘉子の歌は場を大いに盛り上げたという。

「和田さんは、『コロッケのうた』や『うちのパパとママ 』 (筆者注:正式名称は『モンパパ』)などうたわれましたが、皆が希望したのは、当時流行していた『リンゴの唄 』でした。本当に、リンゴのように真っ赤なほっぺをして、きれいなアルトでたのしそうにうたっておられました」(八島俊夫「りんごの歌」三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』より)

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