これは余談になりますが、そう考えている私は「『やばい』を使う最近の若者は語彙力がない!」って批判する気持ちがわからないんですよね。だって「やばい」って、要は「あはれなり」と同じ使い方をするんだから。
平安時代はオッケーで現代ではダメなんて、意味がわからない!
そんなわけで、日本には昔から「感情が大きく動くこと」をひと言「あはれなり」でまとめてしまう文化があるわけです。そして、なぜ「あはれなり」でまとめられるかというと、もう、そう表現するしかないからです。
感情がぶわっと動く。なんだかすごいものを見た──なんだこれ。
目の前で起こったことに対する自分の感情を言語化できないほどに、未知の事態である。そういう状況をもって、私たちは本当の意味で感動する。
だとすれば、自分の感情をすぐさま言語化できないことを恥ずかしく思う必要はないんですよ。むしろ、言語化できないほど感情を動かされるものに出会えたことを嬉しく思いましょう。そんな出会い、人生でなかなかあるものじゃない。
感情を大きく動かしてくれるって、それがたとえマイナスでもプラスでも、人生におけるすごく素敵なギフトです。
なんのために感動を言語化するの?
しかし「じゃあ感動を呼びさましてくれた推しに感謝! 感動は感動のままに、言語化せずに終わりましょう!」だと……SNSにもブログにもファンレターにもなにも書けずに終わってしまいます。それは困りますよね。
いや、もちろん本当に感動した経験って、自分のなかに留めておいてもいいんですよ。なにも無理に他人へ伝えなくても、自分の記憶として脳内に置いておくのも一手です。
しかし私は、「たとえ自分しか見ない日記やメモのなかだったとしても、自分の言葉で感動を言語化して、書き記しておくのはいいことなんじゃないか」派です。
なぜなら、自分の言葉で、自分の好きなものを語る──それによって、自分が自分に対して信頼できる「好き」をつくることができるから。
私は「自分の好きなものや人を語ることは、結果的に自分を語ることでもある」と考えています。そもそも、好きなものや素敵だなと思った人って、すごく大きな影響を自分に与えてくれますよね。
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