犬をデキ愛「徳川綱吉」令和にも通じる深い信念 生類憐みの令の印象が強いが、意外な一面も

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また、こんなこともあった。大老の堀田正俊が、江戸城の外を歩いていると、泣いているふたりの子どもの姿が目に入った。衣服がボロボロでお金がないらしい。

心を痛めた正俊は助けたかったが、こんなふうに考えて、素通りすることにした。

「大老という役職に就いている私の仕事ではない」

というのも、江戸幕府では「どの部局がどんな仕事をするのか」ということが、はっきりと決まっており、担当でもない仕事をするのは、かえって迷惑になると考えられていたからだ。

しかし、正俊が綱吉にそのことを話すと、綱吉はこう言った。

「貧しい者を救うことを<自分の仕事ではない>と考えたとすれば、心の迷いのあらわれだ。人間愛を発揮するのに、事の大小は関係ない。太陽と月は、どんなに小さなものでも照らしているではないか」

このエピソードを見る限り、確かに、綱吉は慈悲深い君主だ。人の命を軽視するような人物だとは思えない。

近年の研究によると、「綱吉に子どもができず、相談したお坊さんの言葉を信じて、生類憐みの令を出した」というのは、デマだとされている。

『三王外記』という、かなり内容が怪しい書物で書かれた綱吉の話が、後世で拡散してしまったようなのだ。

では、なぜ綱吉は「生類憐みの令」のようなトンデモな法律を出したのか。

綱吉の理想だった「儒学」の教えが背景

綱吉が「生類憐みの令」を出した背景にあったのは「儒学」の考え方だ。

儒学とは一言で言うと「思いやりの心で人間関係を大切にしよう」という学問で、綱吉は幼少期から、父で3代将軍の徳川家光から、儒学の考え方を叩きこまれていた。

徳川綱吉 犬 生類憐みの令
©メイ ボランチ

家光亡きあとは、母である桂昌院が、綱吉の教育に熱心に取り組んだ。綱吉もそんな母を大切にし、儒学の教えを実践した。それは政策にも反映されることになる。

将軍になった綱吉は、初代将軍・徳川家康が上野忍ヶ岡に設けた孔子廟(儒学の祖・孔子をあがめる建物)を湯島の地に移し、「大成殿」と命名。それと同時に、徳川幕府において学問と教育を担当した、林家の学問所も同じ場所に移している。これが「日本で初めて学校教育が生まれた場所」ともされる、湯島聖堂の起源となった。

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