死期を悟った50代女性が日記を他者に託した意味 末期がんを家族に告げずに逝く覚悟を決めた

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日記のなかでDさんやその家族に言及したのは2014年8月が最後で、以降は留学先のことを含めて記述されることはなかった。夢の記述もない。それでも、その後のMさんの内面にはDさんと共に暮らす願望が消えていなかったのだ。

そのことをDさんにも家族にも「言えないまま他界する事になる」。だから、せめてその思いだけは消滅させずに、匿名の誰か――しかし確かに存在した一人の人間の願望として、この世に残したかったのではないか。

日記帳には、顧客に向けて刷られたであろう、自身の店を閉じる挨拶文を印刷したカードも挟んであった。日付けは2017年12月とある。すでに生涯の誇りとしていた仕事にもピリオドを打っているわけだ。

日記を綴らなくなってから2年間。Mさんが何を感じて、その間に何があったのかを確かめることはできない。けれど、日記帳を手放す直前、人生の終わりを強く意識して活動していることは容易に想像できる。断腸の思い。並大抵のことではなかっただろう。

匿名にして残したかったもの

それを踏まえて、もう一度3冊の日記帳を読み返すと、2007~2011年の5年卓上日記に気になる記述を見つけた。各月のカレンダー枠の終わりにはフリースペースが1~2ページ設けられているが、3月部分の3段落目、おそらく2009年の当月末に書いたと思われるものだ。

<私の人生は今一歩のところで大切なものを取り逃す事の連続だった。愛する事ができなかった女性.
 遠のいて行った幸せ。結果が解っていたのに勝者に賭ける事ができなかったレース.>

 

3月パートの最後にあるフリーページ(筆者撮影)

留学先から戻って数年、乳がんの術後の状態も良好で、洋裁店も軌道に乗っていた頃だ。傍からは順調な様子に見えていたかもしれない。それでもMさんは、内面にずっと後悔を湛えていた。Dさんや留学先での就職だけでなく、若き日のUさんとのことも含んでいたのかもしれない。

志良堂さんがMさんと連絡を取ったのは2018年7月が最後だ。その後のMさんのことは知れない。ただ、匿名の誰かの記録としてMさんが残した日記は、今も公開が許されたかけがえのない情報として、2024年7月も確かに存在している。

手帳類プロジェクトは現在も、専用フォームなどから日記や手帳の寄贈を受け付けている。自らとのつながりを絶って世の中に放つ。そういう道筋があることを知っておいても損はないと思う。

古田 雄介 フリーランスライター

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ふるた ゆうすけ / Yusuke Furuta

1977年生まれ。名古屋工業大学卒業後、建設会社と葬儀会社を経て2002年から雑誌記者に転職。2010年からデジタル遺品や故人のサイトの追跡している。著書に『第2版 デジタル遺品の探しかた・しまいかた、残しかた+隠しかた』(伊勢田篤史との共著/日本加除出版)、『ネットで故人の声を聴け』(光文社新書)、『故人サイト』(社会評論社)など。

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