「世界一から転落」日の丸半導体を殺したのは誰か 業界のキーマンが語る「日米半導体摩擦」の顛末
アメリカは、自国の半導体を利用させることで日本企業を早期に復活させ、それによって、ソ連や中国など共産主義勢力との結びつきを持たせないようにしたのだ。
しかし、日本はアメリカの思惑をはるかに超えるスピードで成長した。そのことが、両国に摩擦を引き起こす。
1970年代から1980年代初頭にかけて、日立製作所、東芝、富士通、NECなどは、DRAMの製造で世界を席巻し始めていた。煮え湯を飲まされていたアメリカの半導体企業は、「日本企業は日本だけでなくアメリカでも保護されており、不当な恩恵を受けている」と不平を隠さなかった。
テキサス・インスツルメンツ(TI)やナショナルセミコンダクターも、DRAM部門のレイオフに追い込まれた。危機感を覚えたアメリカ企業は政府に猛烈なロビー活動を行い、1984年に「半導体チップ保護法」が成立する。半導体関連の知的財産の保護を強化する法律だ。
その陰で、インテルは1985年にDRAM事業からひっそりと撤退する。
「日米半導体協定」が締結
1986年に日本が半導体生産量でアメリカを抜き、DRAMで8割の世界シェアを獲得する。ことここに至り、アメリカはついに最後の一手を打った。1987年に「日米半導体協定」の締結を日本に迫ったのだ。
この協定は、日本製DRAMの対米輸出量を制限するものだった。だが、これによって半導体の数量は減ったものの価格はむしろ高騰したため、日本企業は経営的にほとんどダメージを受けなかった。
1988年には、日本が世界の半導体生産額の50%を超えるまでに成長する。そのため、1991年の新協定で、「日本国内の外国製半導体のシェアを従来の10%から20%まで引き上げる」という厳しい条項が盛り込まれた。
半導体を制した日本の原動力になったのは、民生用電気機器、いわゆる家電製品だ。ソニーラジオから始まり、電卓、テレビ、ビデオデッキ、ポータブルオーディオプレーヤーなど、高品質・低価格の「メイド・イン・ジャパン」は世界中に輸出され、それに搭載される半導体もがんがん増産された。アメリカの家電は世界から駆逐され、それにともなってアメリカ製の半導体も日本企業にその地位を奪われる、という構図だったのである。
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