「世界一から転落」日の丸半導体を殺したのは誰か 業界のキーマンが語る「日米半導体摩擦」の顛末
途中からは、メインフレームと呼ばれる大型汎用コンピュータに、品質が高くこわれにくい日本製DRAMがつぎつぎと搭載され、日本の半導体シェア拡大を後押しした。
その一方で、1981年にはIBMのパソコンが世界的にヒットし、コンピュータに革命が起こり始めていた。アップルは1984年に初代マッキントッシュを発売。翌1985年にはマイクロソフトがパソコン用のオペレーティングシステム(OS)を開発する。
そこで息を吹き返したのがインテルだ。DRAMから撤退して以降、パソコン向けのマイクロプロセッサーに専念していたことが功を奏した。それまでの円安ドル高が一転、円高ドル安となり、輸出価格が相対的に安くなったことも追い風になった。
1992年には米コンパック・コンピュータが、インテル製チップとマイクロソフトOSを乗せたパソコンを、IBMのパソコンよりはるかに安価で売り出す。これをきっかけに世界のパソコン出荷台数は激増し、インテルもさらに勢いづく。
1995年にはマイクロソフトがOS「ウィンドウズ95」を発売し、パソコンが一般家庭にも浸透し始め、インテルは、半導体メーカーとしての地位を完全に取り戻した。
インテル、サムスンによる“日本潰し”
このころから、韓国のサムスン電子が台頭していく。1980年代に半導体製造に乗り出したサムスンに、インテルは技術やライセンスを惜しげもなく供与した。当時、韓国のコストや賃金は日本より大幅に低かったため、韓国製DRAMが日本製DRAMを駆逐できるのではないかと考えたのだ。
この“日本潰し”は見事に当たった。
DRAMの大口顧客であったメインフレームは1990年代になるとすっかり影を潜め、主役はパソコンに完全に替わっていた。その心臓部に、インテル・ブランドを冠したサムスン製DRAMがつぎつぎと採用され、日本の半導体各社を直撃したのである。
日本の世界シェアはずるずると後退し、逆に、日本国内での外国製半導体のシェアは1996年になって20%――つまり例の新協定で設定された水準に達した。これによって日米半導体協定は失効した。
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