だが、一条天皇は「心ここにあらず」だったことだろう。その日の早朝に、定子が第2子となる男の子を生んでいたからだ。
一条天皇と定子の間に第1皇子が生まれたことは、藤原実資の『小右記』には、簡単な記載があるのみ。道長の『御堂関白日記』では、触れられてさえいない。
だが、藤原行成の『権記』のほうを見れば、一条天皇が「中宮が男子を生んだ。私の気持ちは快然としている」と喜び、「七夜の産養に物を遣わすことについては、通例によって奉仕させるように」と指示する姿が記されている。
そんな一条天皇の気持ちとは裏腹に、公卿たちが歓迎するのは、彰子の入内のことばかり。もはや後ろ盾はなく、一条天皇の気持ちだけが頼りの定子は、さぞ心細かったことだろう。
一条天皇の説得役となった藤原行成
そして、長保2(1000)年2月、中宮の定子を皇后宮としたうえで、道長の娘・彰子が中宮として立后される。
一条天皇からすれば、最愛の定子以外を中宮にするなど、考えもしなかったはずだ。そうでなくても、1人の天皇に2人の后がいるというのは、異例の事態である。
悩める一条天皇の説得役を担ったのは、道長の側近で、蔵人頭の藤原行成だ。こんな理屈で一条天皇を説得している。
「現在の藤氏皇后は、東三条院・皇太后宮・中宮みな出家しているので、氏の祀りを務めない。中宮の封戸(ふこ)は、神事に奉仕するために設けられている」
「中宮が出家している」という異例の状況を突いた、うまい理屈だといえるだろう。
さらに「我が国は神国なり。神事をもって第一にすべし」と畳みかけて、一条天皇の説得に成功した行成。道長からは「子どもの代まで感謝する」という言葉までかけられている。ここが一つの正念場だったということだ。
こうして13歳で中宮となった彰子だったが、同年に定子が25才で病没。彰子は、母を亡くした敦康の養母となることになった。
道長が気になったのは、居貞親王のことだろう。居貞親王は冷泉天皇の第2皇子にあたる。母は藤原兼家の3女・超子(ちょうし)で、道長にとっては甥にあたる人物だ。
居貞親王は一条天皇の4歳年長の従兄でありながら、兼家のバックアップによって、一条天皇の即位とともに、皇太子となっている。つまり、皇太子が天皇より年上という異常な状態のなか、居貞親王は皇太子として長い年月を過ごしていた。
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