居貞親王と藤原娍子との間には、第1皇子となる敦明親王がすでに生まれている。道長からすれば、娘の彰子が一条天皇の子を成さなかった場合に備えて、定子との間に生まれた敦康を、後見役としてバックアップする必要があった。
道長が娘の彰子の懐妊を強く望んだのは言うまでもないが、居貞親王サイドのことを踏まえれば、道長の願いがより切実なものとして伝わってくる。
道長を恨んだ意外な人物とは?
寛弘5(1008)年、ついに彰子が一条天皇の間に子を成すこととなる。生まれたのは男の子で、敦成親王である。さらに彰子は翌年にも出産。第2子となる敦良親王も誕生することになる。
理想通りの展開だ。あとは定子が産んだ敦康ではなく、自身の娘・彰子が産んだ敦成を、将来的に天皇に据えるべく動くのみだった。
3年後、一条天皇が重い病に伏せると、居貞親王に譲位が行われ、三条天皇として即位した。問題は誰が皇太子になるか、である。
一条天皇は定子との間に生まれた敦康を後継者にしたかったが、道長は自分の孫である敦成を何としてでも皇太子にしておきたい。
そこでまた一条天皇の説得役として頼りにされたのが、藤原行成である。
行成は「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうかに基づく」と強調。確かに、敦康を皇太子に据えたところで、バックアップする者がいない。「敦康を憐れむならば年給を」という行成の理屈はもっともであり、またも一条天皇の説得に成功している。
こうして、ついに孫を皇太子に据えた道長。あとは、三条天皇を退位させるだけとなったが、その強引なやり方について、意外な人物から反感を買うこととなった。
それは、娘の彰子である。本来ならば、自分の息子を皇太子にしてもらえるのは嬉しいことのはずだ。だが、彰子は敦康の立場に深く同情しており、夫である一条天皇の望み通りにすべきだと考えていた。
行成は『権記』に「后宮は丞相を怨み奉られた」と記載。后宮は彰子、丞相は道長のことだ。自分の意向を父の道長に無視されたのが悔しかったのだろう。
正義感の強い彰子はやがて「国母」として、その存在感を発揮することになる。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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