宣孝の生年は不詳だが、長男の隆光の年齢から逆算して、天暦3(949)年頃に誕生したと推測されている。つまり、このときには47歳頃と思われる。式部は26歳頃なので、20歳ほどの年の差があったようだ。
宣孝には、すでに子をなした女性が3人もいたが、お構いなしに、式部への手紙攻勢はその後も続いた。あるときには、式部がこんな歌を返している。
「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば」
(紅の涙などというと、ますます疎ましく思います。変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので)
詞書の解説によると、宣孝の「文(ふみ)の上に、朱といふ物をつぶつぶとそそきて、『涙の色を』と書きたる人の返り事」とある。
手紙の上に朱を振りかけて「涙の色を見てください」と書いてきた人への返事……。宣孝もまた50歳手前にして、なかなかぶっとんだアプローチをしたものである。
式部の返事が冷たいのは、宣孝がどうにも信用ならないからだ。式部は、宣孝が同時に、ほかの女性にも声をかけていると知っていたらしい。「あなた以外にいない」という宣孝に対して、式部はこんな歌も詠んでいる。
「みづうみに 友よぶ千鳥 ことならば 八十の湊に 声絶えなせそ」
近江の湖で友を呼ぶ千鳥さん、それならいっそ、いろんな湊(みなと)で声を絶やさず、あちこちの女に声をかけたらよいでしょう……。
冒頭の「みづうみに」は、宣孝が近江守の娘にもアプローチしていたことを受けてのもの。女好きの宣孝には呆れるばかりだが、あしらいながらもきちんと返歌をしていることから、式部もどこか恋の駆け引きを楽しんでいるように見える。
2年足らずで越前をあとにして京へ
そして式部は長徳3(997)年の年末から長徳4(998)年の春にかけて、父の為時を残して単身で京へ向かう。越前での父との生活は、2年足らずでピリオドが打たれた。
すでに結婚を決意しての上京だったらしい。長徳4(998)年の冬には、式部は宣孝と結婚している。
京での新しい生活のスタートだ。どんな日々が待っているのかと、式部は不安と期待に胸を膨らませたに違いない。だが、その先に待っていた激動の展開は、想像力豊かな式部をもってしても、とても予見できなかったことだろう。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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