しかし、紫式部と清少納言は、宮仕えの時期が重なっていないことから「面識がなかったのでないか」とされてきたが、「面識があった」と唱える学者もおり、史実は明らかになっていない。
ドラマでのまひろ(紫式部)とききょう(清少納言)の2人は、タイプこそ違えどリスペクトし合える関係はほほえましく、2人の行く末に幸あれ、と思わず応援したくなる。『紫式部日記』にて、紫式部は清少納言を痛烈に批判しているだけに、2人の関係がどう変化していくのかも、ドラマの見どころの一つとなりそうだ。
まひろと道長の恋愛ストーリーも、大胆に脚色しながらも、史実との整合性から大きく逸脱することはなく、「そんなことがあったのかもしれない」と思わせるほど、秀逸な脚本に仕上がっている。
時代考証を担当しているのが、日本古代政治史や古記録学を専門とする倉本一宏氏とあって、最新の研究成果も交えた質の高いシナリオになっているように思う。
実は、式部と道長が恋愛関係にあったとする説は、以前からあるものだ。南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、紫式部の箇所に「御堂関白道長妾云々」とある。ただし、ここでの「妾」の意味合いや、『尊卑分脈』の信憑性については、議論があり、意見が分かれている。
これをもって「式部と道長が実は恋愛関係にあった」とするのは早計だが、「光る君へ」での設定は、それほど無理があるものではないようだ。
世渡り上手で派手好きだった藤原宣孝
では、史実において、紫式部が男女の関係にあったのは誰かといえば、夫となる藤原宣孝である。どんな人物だったのか。
権中納言の藤原為輔と、参議の藤原守義の娘の間に、宣孝は生まれた。紫式部の父である藤原為時は宣孝の父・為輔と従兄弟関係にあたる。また、年齢については後述するが、為時と宣孝は同年配だったと思われる。
さらにいえば、2人は同僚でもあった。永観2(984)年8月、円融天皇が退位し、花山天皇が即位すると、為時は式部丞で六位蔵人に任じられた。約2カ月後に左衛門尉の宣孝も同じく六位蔵人に補されており、2人は接点を持つこととなった。
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