共通点の多い為時と宣孝だが、生き様や性格のタイプは、ずいぶんと違ったらしい。
為時がなかなか官職につけないなかで、宣孝は備後・周防・山城・筑前などの国司を経験している。藤原道長に誘われた宴席すらも終われば「即帰り」する為時とは違って、宣孝は世渡り上手だったのだろう。
また、長保元(999)年11月11日には、賀茂臨時祭の調楽が行われて、宣孝はずいぶんと活躍したらしい。側近として道長を支えた藤原行成が、その日の日記に次のように綴っている(『藤原行成「権記」全現代語訳(上)』倉本一宏著、講談社学術文庫より)。
「今日、調楽が行なわれた。殿上のあちこち、下侍の前において、盃酒の饗宴が行なわれた。右衛門佐の人長は、甚だ絶妙であった」
右衛門佐とは「藤原宣孝」を指し、「人長」は舞人の長のことをいう。宣孝は何かと派手なことが好きだったようだ。御嶽詣に派手派手しい衣で参拝して、清少納言の『枕草子』で、痛烈にイジられることもあった。
藤原宣孝の求愛をあしらう紫式部
何かと父とはタイプが違う宣孝のことを、式部はどのように思っていたのか。長く不遇だった父の為時がようやく越前守という官職を得ると、式部も一緒に越前へ。現地では、こんな歌を詠んでいる。
「春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり解くべき程のいつとなきかな」(春ではありますが、こちらの白山の深い雪にさらに雪が積もり、いつ解けるかもわかりかねます)
どんな状況で詠まれた歌だったのかは、詞書に説明されている。
なんでも式部が越前に下向した翌年、長徳3(997)年に「唐人見にゆかむ」、つまり、唐人を観に行こうと、式部に手紙を送ってきた人がいたらしい。「唐人」とは当時、若狭国に漂着していた70人あまりの宋人のことだろう。
その人はさらに「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらん」と式部に伝えてきた。「春は解けるものだと何とかあなたにお知らせ申し上げたい」という意味になり、「君の心も私に打ち解けるべきだよ」というメッセージが込められている。
それに対して、式部が返したのが、前述の「春なれど~」の歌である。「あなたに打ち解けるなんていつの日になることやら」と、うまく相手をあしらっている。
この相手こそが、のちに結婚する宣孝だとされている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら