もちろん、実権を握る左大臣の道長が、この状況を静観するはずもない。長保元(999)年11月1日に娘の彰子を一条天皇に入内させた。さらに6日後の11月7日、彰子に女御宣旨が下されることとなる。
その日の日記に、道長は「彰子に女御宣旨が下った」と記しながら、右大将の藤原道綱や民部卿の藤原懐忠、太皇太后宮大夫の藤原実資など、慶賀を奏上した面々の名を書き連ねた。「なんども盃を交わした」とも書かれており、道長のご機嫌な様子が伝わってくる。
だが、注目すべきは何が書かれなかったか、である。まさに同じ日、定子が第2子で、第1皇子となる敦康親王を出産しているが、道長は一切触れていない。
さらにいえば、定子が2度目の出産を行うにあたって、竹三条宮に移ることになったときのことだ。道長はわざわざその日に宇治へと遊覧に赴いている。
この行動に実資は「行啓を妨害する行為だ」と道長を批判している。実際に、道長の不興を買うわけにはいかないと、多くの公卿が参内しなかったという。
定子へのこだわりに道長も困惑か
一方で、道長に付いて宇治の遊覧に出かけた公卿は、藤原道綱と藤原斉信の2人だけ。大半の公卿はこれから先の展開が読めずに、様子見を決め込んだようだ。
政権を盤石にしつつあった道長にとって、一条天皇の定子への思い入れは、さぞ厄介なことであっただろう。
一条天皇とて、何も定子のみを寵愛したわけではない。
長徳2(996)年には、藤原公季の娘・藤原義子が入内して女御となり、さらに、右大臣の藤原顕光の娘である藤原元子も入内して、女御になっている。さらに2年後には、藤原道兼の娘・藤原尊子が入内している。
定子が「長徳の変」によって没落すると、周囲が色めき立ち、各方面から働きかけがあった結果だろう。
それにもかかわらず、周囲から反発を受けてまで、定子を寵愛したのだから、よほど思いが深かったのだろう。
思えば、かなりの女好きだった花山院もまた、最愛の女御である藤原忯子への寵愛は、格別だった。忯子が病死して失意の底にいたところを、藤原道兼に騙されて出家。その後に、一条天皇が即位している。
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