兼家のあとを継いだ長男の道隆も当然、そんな父にならった。正暦元(990)年に14歳の娘・定子を、わずか11歳の一条天皇のもとに入内させる。
それから6年後の長徳2(996)年12月、2人の間に長子となる女児・脩子が誕生。世継ぎとなる男の子ではないものの、本来は、これほど喜ばしいことはないはずだ。
しかし、このときばかりは事情が違った。御子の誕生が、宮中に不穏な空気を生むことになる。
一条天皇の暴走に宮中はざわめく
なにしろ、一条天皇との間に御子が生まれるのを心待ちにした定子の父・道隆は、すでに病死している。また、定子が御子を産むことで、権力を掌握しようとした定子の兄・伊周にいたっては「長徳の変」で失脚。太宰府に流されることになった。
当の定子も兄の不祥事の責任をとり、剃髪して出家。藤原道隆を祖とする中関白家は、没落の一途をたどっていた。そんななかでの定子の懐妊および出産は、周囲を大いに戸惑わせたようだ。
長徳3(997)年6月22日、一条天皇は、生後約7カ月の脩子内親王とともに、定子を職曹司(しきのぞうし)に移している。
職曹司とは、中宮に関する事務を扱う役所「中宮職」の一局だ。内裏の東側に隣接していることから、人目を忍んで通いやすいと、一条天皇が考えたのだろう。
だが、すでに定子は自ら出家した身であり、しかもその原因は兄・伊周の不祥事である。まさしく事件の真相究明が行われているときに、定子が宮中に呼び戻されたのだから、公卿たちの不満も大きかったようだ。
藤原実資は日記の『小右記』で「天下、甘心せず(天下は感心しなかった)」とし、宮中が歓迎ムードとは程遠かったことを記している。さらに「太(はなは)だ稀有なことなり(とても珍しいことである)」と言葉を重ねて、一条天皇の行為を批判している。
だが、一条天皇はそんなムードに屈することなく、定子を寵愛し続けた。これまでも皇妃が職曹司を利用するケースははあったが、滞在は短期間なものばかり。
それにもかかわらず、定子は3年にもわたってとどまっている。そればかりか、一条天皇との間に、2人目の子どもまで宿すことになった。それも男の子が生まれたのだから、宮中がさらにざわついたことは言うまでもない。
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