「働くことの解像度」を上げる「プロレス的思考法」 相手がいてこそ私たちは「闘う」ことができる
たかが働く、されど働く
僕たちは資本の原理に支配され、商品に囲まれ、自らも労働力を商品として提供する社会に生きています。
そんな生活を送っているあまり、誰かとの比較でしか自分の価値が測れなくなっていることを、新刊『武器としての土着思考』では問題視しています。だから雇用契約が更新されなかったり、病気で仕事を辞めざるを得なかったり、就職活動に失敗したりすると、生きている意味がなくなったと思ってしまう。こんな社会が生きやすいわけはありません。
本書において「働くこと」は、労働力を市場に提供するだけの話であり、自分の生きる意味や価値とはまったく関係がないことを主張しています。と同時に、やはり現代社会で生きていくうえではお金が必要だったり、働くこと自体はしんどくても、ノルマを達成したり、同僚と愚痴を言い合いながら酒を飲んでいる時こそ、心から楽しい時間を過ごせていると思えたりする。たかが働く、されど働く。こんなふうに「働くことの解像度」が上がれば、仕事を続けるか辞めるか、ゼロかイチか生きるか死ぬかという、白黒思考から脱せられるのではないでしょうか。
「働くことの解像度」を上げるために必要なのが、生きることを自分一人で引き受けないことだと思っています。どうしても、自分の生活費を自分で稼ぐことが自立であり、大人であるという言説が広まっていますが、本当にそうでしょうか。というか、この時の「自分」とは何なのでしょうか。
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