「働くことの解像度」を上げる「プロレス的思考法」 相手がいてこそ私たちは「闘う」ことができる

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家族や友人に囲まれ、うれしい時も悲しい時も話を聞いてもらったり、反対に話を聞いたりしているのも「自分」です。そういう家族や友人がおらず、社会制度や社会資源によって生きているのも「自分」です。「自分」を孤立した単一の個人としてだけ見るのではなく、関係性のなかで理解すること。この思考法こそ、僕が本書で述べている土着思考の重要な一つのキーワードです。

本当の意味での「プロレス的思考」

そしてなぜこのような思考法が「武器」となるのか。もしかしたら、みなさんが考えている「武器」とは意味が異なるかもしれません。「はじめに」には以下のように記しています。

また、本書のタイトルに入っている「武器」という言葉についても述べておく必要があります。もちろんこの武器は、「現代社会を生きていくための手段」という意味です。生きていくことは簡単ではありませんし、そういう意味で僕にとって生きることは「闘い」だといえます。しかしこの闘いは、決して相手が二度と立ち上がってこないよう、完膚なきまでに痛めつけることを目的としていません。
ある程度長く生きていれば分かるように、競争した相手が味方になったり、時には味方が敵になったりすることはあります。もしくは大切なプレゼンや試験や試合の前の日に限って眠れなかったり、うまく話しかけたいのにその場に行くと言葉が出てこなかったり、「自分のことが嫌い」という人は「自分こそが一番の敵」だと思っているかもしれませんね。むしろ、相手がいるからこそ僕たちは闘うことができる。相手がいるからこそ僕たちは生きていくことができる。この考え方こそ、巷で「茶番」の比喩として使われるのとは全く異なる、本当の意味での「プロレス的思考」です。馬場がいたから猪木があった。長州と藤波、小林と佐山、山田と佐野、棚橋と中邑も同様でしょう。決して二人ではなく、武藤、橋本、蝶野などといった三人の場合もあるかもしれない。分かる人にしか分からない例えですみません。
とにかく、相手と関係をつくり、その関係の中でいかに生きていくか。この相手には、自分の中の「うまくコントロールできない自分」も含まれています。この相手とともにどう生きていくか。それこそ、僕が考える「闘い」(スペイン語でルチャ)です。だから本書で述べている武器とは、相手の技を受け、さらに強い技で返すことで生命力を高め合うような、「相手がワルツを踊ればワルツを、ジルバを踊ればジルバを」というかの名言にもあるような、「相手があってこその生」を築いていくための思考法のことなのです。
次ページ可能なる「山村デモクラシー」
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