ここで驚くべきは、その吉田拓郎よりも、加藤和彦のほうが1年年下ということだ。さらに驚くべきは、先述の『帰って来たヨッパライ』からミカ・バンドの解散まで、すべて20代の加藤和彦の仕業だということ。
日本中を席巻した20代の若者による「先進」と「諧謔」と「洗練」――「自由」。キャリア初期の加藤和彦が、いかに早熟だったか、いかに恐るべき若者だったか、ということになる。
加藤和彦の遺書に書かれていた内容
加藤和彦の最期を語るのは哀しい。今年は加藤和彦の自死から15年というタイミングになる。遺書にはこう書かれていたという――「私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし、私にも今は必要もない」。きたやまおさむは語る(産経新聞/2023年10月27日)
――当時、加藤が精神的に異変をきたし、「死にたい」と漏らしていたのは知っていました。理由はいくつかあったと思います。ひとつは「創造ができなくなった」というのです。(中略)もうひとつは経済的に切迫していたことです。
そんな最期に照らし合わせて輝き出すのが、キャリアの初期の初期、きたやまおさむと一緒に輝いたフォークルのことだ。私の書いた小説『恋するラジオ』(ブックマン社)では、加藤和彦の最期を知った主人公の少年「ラジヲ」が1968年のフォークル解散コンサートにタイムリープし、21歳の加藤和彦にこう叫ぶ。
――「いつまでも、今日のように楽しく音楽をやり続けてや。絶対やめんといてや!」。さすがに「自殺なんてするな」とストレートには言えなかったので、妙に思わせぶりな言い方となった。若くつるっとした顔の加藤和彦が笑顔で答える。「もちろん。君も音楽をずっと好きでいてね」
映画『トノバン』では、キラキラとしたキャリア初期から、中期・後期を経て、最期に至るまでの人間・加藤和彦の実像が、さまざまな関係者の口から語られるのだが、中でもやはり、きたやまおさむの発言一つひとつが、抜群に胸に残る。
加藤和彦の盟友としてだけでなく、1人の精神科医として、等身大の加藤を、身びいきではなく冷静に語る言葉は胸に迫る。それを聞くだけでも、この映画の価値はあると思う。
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