これでは取材にならない――。私はケイスケさんの話を遮ると「お話が長くなったり、質問の答えから外れていったりした場合はその都度制止してもよいですか」と尋ねた。ケイスケさんは「ありがとうございます! それはまさに私(わたくし)の障害の特性ですので、ぜひそのようにしてください」と答えた。
ともすれば一方的になりがちな語りを制しながら聞き出したケイスケさんの半生はおおむね次のようなものだった。
子ども時代、勉強はトップクラスだったが、スポーツはおしなべて苦手。ドッジボールなどはいくらルールを説明されても理解することができなかった。手先も不器用でトランプを切ることができなかったという。
一方で親戚にご詠歌をたしなむ人がいたことから、幼稚園のころから仏教に関心を持つようになる。中でも即身仏(僧侶のミイラ)への興味が募り、関連の書籍などを読みふけり、どの寺にだれの即身仏があるかをそらんじることができるほどだったという。
大学卒業後は新聞社で働き始めた
小学校のころはたびたびいじめに遭った。このため中学からは中高一貫の進学校に入学。いじめは収まったものの、友人は少なかった。その分勉強に精を出し、早稲田大学第一文学部へと進む。卒業後は新聞社の校閲記者として働き始めた。
「本当は大学院に進み研究者になりたかったんです。でも、何社か試験を受けたところ、一社だけ合格したので就職することにしました」
しかし、職場では連日のようにミスを繰り返したという。元原稿と印刷された紙面との間の間違いなどを見つける仕事で、3と8、6と9といった外形が似た数字を取り違えてしまう。その結果、電話番号や日付、数字の多いスポーツ面などの誤りをたびたび見落とした。先輩記者からはそのたびに「何カ月この仕事、やってんだ!」「このままじゃ一面は任せられない」と叱責されたという。
ケイスケさんが関心のある宗教や文化関連の紙面を優先的に担当させてもらうなどしたものの、結局うつ状態となり2年余りで退職。あらためて大学院に進学し、念願だった日中の仏教史を専攻する。台湾への留学を経て30代なかばで博士号を取得した。
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