崖っぷち「イカ王子」民事再生後も目指す再起 窮地が続く東北被災地の水産業を伝え続ける

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仙台の大学に進学したものの、都会の遊びを満喫し過ぎて2年で中退。

東北最大の歓楽街・国分町のダイニングバーでアルバイトを始めると、客引きや接客で営業センスが開花し、社員に昇格。元来、食や料理が好きだったこともあって飲食の仕事は天職と感じた。

耳や鼻のピアスに金髪、という鈴木さんのいでたちに、親戚や宮古の人たちは「仙台でホストになったらしい」と噂した。

Uターン、そして東日本大震災

一生、都会の夜の街で働くつもりだったという鈴木さんの転機は23歳のとき。両親が仙台まで来て「会社を継いでほしい」と頭を下げた。大学を中退した申し訳なさもあり、しぶしぶUターンを決めた。

夜の街での仕事から一転、毎朝まだ暗いうちからトラックを運転して魚市場に向かい、イカを買い付け、加工場に戻ると1日中、従業員たちと一緒にイカをさばいた。

「まるで刑務所にいるみたいだ……」

仕事にやりがいを見いだせず、「ここが俺の居場所なのか」と自問自答を繰り返した。「いずれは社長になるしかないんだろうな、と思いながらも、こんな中途半端な人生はつまらない。このまま終わりたくない。そんな気持ちがくすぶっていました」。

そんな鈴木さんの日常を一変させたのが、2011年の東日本大震災だった。

家族や従業員、加工場は無事だったが、魚市場や漁港は津波で大きな被害を受け、駅前の商店街はがれきに埋め尽くされた。

鈴木さんの友人や取引先も犠牲になり、廃業を余儀なくされる取引先もあった。共和水産も在庫を保管していた冷凍倉庫が津波で流出し、1億3000万円の負債を抱えた。

だが呆然としている時間はなかった。復旧・復興に向けた動きが始まり、市内の事業者や住民、議員などに混ざって鈴木さんもさまざまな会議に招集された。

するとそこでは誰もが「宮古は水産のまちだ」「水産業の復興なくして宮古の復興はない」、そう口を揃えた。市民にとって水産業が重要な産業なのだということを実感した瞬間だった。

「震災が起きて初めて、自分は宮古という水産のまちのど真ん中に立っているんだと気が付きました。中途半端なことをやっている場合じゃない、覚悟を決めようと腹が据わりました」

生き残った自分にできることは何かと模索する中で生まれたのが「イカ王子」だった。

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