「少女への思い」語る光君と、聞き入れぬ者の逡巡 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫④

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源氏物語 1 (河出文庫 か 10-6)
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僧都は奥に入って、源氏の君の言葉を尼君にそのまま伝えるけれど、

「今はどうともお返事の申し上げようがございません。もしお気持ちがあれば、四、五年たってからでしたらいかようにも……」と言うのみである。

その尼君の言葉を僧都から聞き、前と同じ返事であることに光君はがっかりした。尼君への手紙を、僧都の元にいるちいさな童(わらわ)にことづける。

夕(ゆふ)まぐれほのかに花の色を見てけさは霞(かすみ)の立ちぞわづらふ
(昨日の夕暮れどきにちらりとうつくしい花の色を見ましたので、今朝は霞とともにここを立とうにも、立ち去りがたい思いです)

すると尼君から

まことにや花のあたりは立ち憂(う)きと霞(かす)むる空のけしきをも見む
(本当に花の元を立ち去りにくいのでしょうか、そうはおっしゃいますが、はっきりとしない空──あなたさまのお気持ちを見届けたいことでございます)

と、じつに奥ゆかしい筆遣いで気品ある文字を無造作に書いた返事が届いた。

お迎えの人々や子息たち

光君が車に乗ろうとすると、左大臣家から「どちらへともおっしゃらずにお出かけになったと聞きました」と、お迎えの人々や子息たちが大勢でやってきた。頭中将(とうのちゅうじょう)や左中弁(さちゅうべん)、そのほかの者たちも光君の後を追ってきて、

「こういう時のお供は勤めさせていただこうと思っているのに、置いていかれるなんてひどいことです」と恨み言を言い、「まったくすばらしい花の下に、少しも足を止めずに帰るなんてつまらないではありませんか」と、岩陰の苔(こけ)の上にずらりと座って酒を酌み交わす。落ちてくる水の風情も味わい深い滝のほとりである。頭中将は懐から横笛を取り出して吹きはじめる。弁の君は扇で拍子をとりながら、「豊浦(とよら)の寺の西なるや」と、うたい出す。左大臣家の子息たちはみな格別にすぐれた貴公子であるが、気だるそうに岩に寄りかかって座っている光君が不吉なほどにうつくしく、それにかなう者はひとりもいない。例によって、篳篥(ひちりき)を吹く随身(ずいじん)も、笙(しょう)の笛を従者に持たせている風流人も一行の中にいる。僧都はみずから琴を持ってきて、

「これを一曲お弾きになってください。山の鳥を驚かしてやりとうございます」と光君にしきりに頼む。

「気分がよくなくて、本当につらいのですが」と答えるも、不愛想にならない程度に一曲搔き鳴らして、一同は出発した。別れがたくて、とるに足らないような法師も子どもたちもみな涙をこぼしている。まして奥では、老いた尼君たちも、あんなにうつくしい人は今まで見たことがなかったので、「この世の人とはとても思われません」とみなで言い合っている。

「本当に、どんな前世の因縁で、あのようにうつくしいお姿で、このわずらわしい日本(ひのもと)の末世にお生まれなさったのだろうと思うと、本当に悲しいことだ」と言って僧都は目を拭う。

あの少女も、幼心に光君をすばらしい方だと思い、「父宮のお姿よりもご立派でいらっしゃったわ」などと言っている。

「それなら、あのお方のお子におなりになったら」と女房が言うと、少女はうなずき、それはすてきなことだと思うのだった。人形遊びをしても、絵を描いても、これは源氏の君と決めて、きれいな着物を着せてだいじにしている。

次の話を読む:次第に気持ちが離れる、光源氏の夫婦関係の複雑

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代 小説家

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かくた みつよ / Kakuta Mitsuyo

1967年生まれ。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。著書に『対岸の彼女』(直木賞)、『八日目の蝉』(中央公論文芸賞)など。『源氏物語』の現代語訳で読売文学賞受賞。

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