背番号は17。日本ハムで11を背負った大谷は「本当は(トラウトの)27にしようかなという気持ちはあったけど、埋まっていたので17番にしました」と再び"トラウトいじり"で爆笑を誘ったが、こうも言った。「新たな気持ちでここで頑張っていくことを決めた時に、17にしようかと思った」。
17は花巻東の出世番号に当たり、過去に菊池、そして大谷も背負った。メジャーを夢見た初心に帰る。実直な大谷らしい選択だった。
大谷は会見後、球場コンコースで日本メディア、米メディア、現地テレビ、ラジオ局の取材に対応した。
通常、日本メディアは日本メディア用の取材時間しか話を聞くことができず、そのほかはその場から離れるのが"暗黙のルール"だったが、米国での取材が初めてだった私含め、他の日本人記者は、すべてのインタビュー現場を大谷のそばで聞いた。
当時の日本メディアに対応する大谷の写真はエンゼルスタジアムの会見室に飾られ、私も後ろ姿ではあるが、大きく映っていることが秘かに自慢だ。
なぜエンゼルスだったのか?
会見後、ホテルに戻って原稿を書いていると、会社から「大谷が帰る空港をケアするように」との指示が飛んだ。
当然の指示だが、私の処理能力の許容量を超えていた。iPhoneのレコーダーアプリ「ボイスメモ」(以下、レコーダー)の音声の書き起こしもそこそこに、ホテルからレンタカーで約30分かけて空港へ。空港のベンチで大谷が来るか警戒しながら、レコーダーの音声を書き起こし、原稿を書くという、これまでにない過酷な状況だった。
結局、大谷は空港に現れず、入団記者会見から一夜明けた10日。午後10時前のロサンゼルス国際空港に姿を見せた。黒シャツ、淡いブルーのジャケット姿。一般客とは別に用意された通用口から入り、帰国の途に就いた。
あまりに一瞬の出来事だったため、私物のミラーレス一眼カメラでは大谷の横顔しか撮影できず、iPhoneで撮ればよかったと深く後悔した。ともあれ無事に、帰国日未定で始まった米国出張が終了した。
それにしても、なぜエンゼルスなのか。私が把握している限り、スタンドに球団スカウトを見かけたことはなく、そもそもレンジャーズのように駐日スカウトも常駐していない。
ドジャースのように高校時代から熱心にスカウト活動を続けていたわけでもない。大谷は理由について「縁」や「感覚的なもの」という言葉で表現したが、今も当時も100%腑に落ちてはいない。
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