「倍速消費」並みになった合意形成のスピード感 政策が次々と「検討なく」決められている理由

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中野:はい、ありがとうございました。では、施さんにまずは口火を切っていただけますでしょうか。

大衆にアプローチしなくなったアメリカのリベラル

:わかりました。佐藤さんの話はそのとおりだと思います。また、問題意識にも大変共感を覚えました。私たちの共著の新刊本『新自由主義と脱成長をもうやめる』の中でも触れていますが、合意形成を放棄する現代の傾向は、何人かの政治学者はしばしば指摘しています。例えば、アメリカの左派系の政治学者マーク・リラは『リベラル再生宣言』という著書の中で、現在のアメリカ政治における話し合い放棄の現象について触れています。今の社会運動家たちは立法過程に期待を抱かなくなったというのですね。かつての社会運動家たちは、大衆に呼びかけ、彼らを説得し、多数派を取って社会変革を目指すのが一般的でした。しかし、現在のリベラルは、その道を断念し、もっぱら司法を通じて、つまり裁判闘争で社会を変えようとしています。これは、意見を異にする者に向き合わず、社会的合意を形成しようとしない態度の表れです。

施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。1971年、福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)

リラはまた、現代のリベラル派のインテリは、労働者階級への呼びかけをやめ、大学街に逃げ込んでしまったとも指摘しています。彼らは象牙の塔に籠もり、自分たちの小さなサークル内で理想を語り、社会がそれに同意しない場合は一般大衆のほうが悪いと非難すると言っています。このようにアメリカの現在のリベラル派は一般大衆へのアプローチを放棄してしまったのです。

こうした傾向は、新自由主義に基づくグローバル化の流れの中で、民主主義の意味が変質したことと関連していると私は考えています。つまり、1960年代、1970年代ぐらいまでのかつての民主主義は、まがりなりにも一般国民の目線でよりよい社会の建設を目指す試行錯誤のプロセスでした。しかし現在では、その試行錯誤の主体が一般国民からグローバルな投資家や多国籍企業へと変わってしまったと言えます。

つまり、グローバルな投資家や企業は、1990年代に生じたグローバル化の流れの中で、自分たちがビジネスしやすい環境を作らない国に対しては、自分たちの持つ国境を越えて資本を動かす力を武器にして各国政府に圧力をかけられるようになりました。言うことを聞かない政府に対して、「もうあんたの国には投資しないよ」とか「資本を引き揚げるよ」と言って、例えば「法人税を下げろ」「人件費を下げられるように構造改革をしろ」と政治的圧力をかけることができるようになったからです。

そうなると、多くの普通の国民が、自分たちの国や地域社会の中で、いろんな人の話を聞きながら、国益や公益を探っていきましょうということは、残念ながら、今の民主主義の目的ではなくなっちゃったんじゃないかと思うんですね。外部の人が設定した目標をいかに効率よく実現するかが目的となってしまっていて、外見上は民主主義がまだあるという程度のものになっているのではないかと見ています。

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