「倍速消費」並みになった合意形成のスピード感 政策が次々と「検討なく」決められている理由

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佐藤:政治が社会的合意形成を放棄すると、国はどういうことになるか。まずインフラ整備など、本当に重要な政策は実行されません。そのような政策は多大なリソースを必要とするのが常ですから、根回しをせずにやれるはずがないのです。

だとしても「われわれはやるべきことをやらずに、いい加減にごまかしている」と自覚するのはツラい。こうして社会には、ある風潮が台頭するに至ります。「社会的合意が必要なことは、そもそもやらなくていいんだ」という開き直りの風潮です。

復興の放棄は安全保障の放棄だ

2024年は能登半島地震で始まったわけですが、その直後、「過疎地域の復興はコスパが悪いから、被災者には集団移住してもらうべきだ」という趣旨の主張を公言する政治家が現れました。要するに復興の放棄を提唱したのですが、ならば過疎地域で災害が発生するたびに、わが国は実質的に縮小してゆくことになる。

これを肯定する政治家が、自国の領土を守ろうとするはずはありません。復興の放棄とは安全保障の放棄であり、ずばり自滅への道なのです。

ちなみに、この手の開き直りを正当化する便利な言葉があります。すなわち「過剰」。過剰とは本来「必要な程度を超えている」「多すぎる」という意味ですから、過剰なことはやらなくてもいい、もしくはやらないほうがいいと主張できる。ところが最近では、「過剰」を「コスパが悪い」という意味で使う人が増えているんですよ。

世の中、コスパが悪くても必要なものはありますので、この用法は正しくありません。「コスパが悪いものは過剰で、ゆえに不要」などという話になったら、そもそも社会的インフラの整備などできないのです。裏を返せば、インフラ整備の放棄を正当化するには「過剰」を不適切な意味合いで使うのが手っ取り早い。あまつさえ「コスパが悪い」を、「自分の気に入らない」という意味で使う傾向すら見られる。

平成の日本では、道路インフラなどの公共投資が「過剰」だとさんざん叩かれました。それがコロナ禍で「過剰自粛」「過剰医療」となり、能登半島地震で「過剰復興」「過剰支援」に至っている。次は恐らく「過剰領土」「過剰主権」でしょう。わが国の領土を他国が実効支配しても、「取り返すのはコスパが悪いから、黙って差し出すのが合理的だ。反対するヤツは自分で取り返しに行け」とか言い出す者が現れるに違いない。

裏を返せば、この発想は国家の縮小や消滅につながります。かつてマーガレット・サッチャーは、「社会などというものは存在しない。あるのは個々の男女と家族、そして政府だけだ」と言い切りましたが、社会のないところには国家もない。バラバラになった個人と、追い詰められて自滅的に振る舞う政府が残るのみ。

はたして自由民主主義は、この状況で存続しうるのか。存続しえないとすれば、どうすればいいのか。そういったことを皆さんと議論していきたいと思います。

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