企業にとって「利益の追求」だけが美徳なのか? 企業と世界の関係という歴史から得られる教訓

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経営陣が従業員の10倍とか20倍、あるいは100倍の給料をもらっていたら、従業員の心には当然、会社は自分たちを正当に評価しているのかという疑念が生まれるだろう。労働者の意欲が削がれれば、生産性は低下する。たとえ意欲が削がれなくても、疎外や社内の分断は放置しておいていいものではない。

近年、企業の目的は何か、社会的な目標を考慮に入れることはできるか、取締役はもっぱら利益の最大化をめざすべきかといったことが延々と論じられているが、歴史的に企業を掘り下げてみると、企業のほんとうの存在理由、企業が創設されたほんとうの目的が見えてくる。それは国の共通善を促進するということだ。

企業はもともと国の目標を追求するために作られた。その目標の中には、もちろん、商業の拡大も含まれたが、それがすべてではなく、探査や、植民や、布教といったことも含まれた。

もし誰かが17世紀の英国の議員に、ミルトン・フリードマンが1970年に述べたように、企業の目的は「できるだけ多くのお金を稼ぐこと」だといったら、あきれられただろう。

当時は誰でも、企業が国益と密接に結びついていることを知っていた。国王は理由があってジョイント・ストック・カンパニーに特許状を与えたのであり、それは単にフィルポット通りの一握りの商人を儲けさせるためではなかった。

歴史から得られる具体的な教訓

ところが、その後、アダム・スミスから現代までのどこかで、企業と共通善との結びつきがぼやけてしまった。今日、企業が共通善を考慮しなくてはならないということは、もはや自明ではない。それどころか、大きな議論を呼ぶこととすら思われている。

本書では、公的な目的を持った公的な事業体としての企業が、利益追求マシンとしての企業へと変わっていく過程をたどった。世界が企業とともに歩んできた歴史からはもっと具体的な教訓も得られる。

本書で取り上げた企業はいずれも――古代ローマのソキエタス・プブリカノルムから東インド会社やフォード・モーター・カンパニーまで――産業の形態になんらかの新機軸をもたらしている。ある企業は有限責任の先駆となり、ある企業は株式会社の先駆となり、またある企業は大量生産の先駆となった。

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