重役たちに自分の行動や自社の行動が他者にどういう影響を及ぼすかを考えさせるのは、企業の本来の目的と合致している。重役陣がそのような観点を持つことで、企業が直面する倫理的な問題のすべてが解決するわけではないが、それでも多くの問題は解決するだろう。
一方、利益を追求すれば、結果的に必ず社会全体の利益を増進するという盲信は、誤りでもあれば、危険でもある。誤りだといえるのは、あらゆる分野において、利益を生む戦略の中には社会を害するものがあるからだ。
フェイスブックは広告主を引き寄せるために、中毒性の高いサイトを作ったが、デマや対立を煽る投稿であふれかえったサイトによって、社会は損なわれることになった。
エクソンは気候変動対策の規制を阻止することで、自社の利益を改善したが、そのせいで社会は長期的な環境破壊という損害をこうむった。
コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)は次々とレバレッジド・バイアウト(LBO)を仕かけ、莫大な富を手に入れたが、その大半は納税額を減らすための金融工学と、人件費を減らすコスト削減によってもたらされたものだった。
利益の追求を金科玉条とするのは単に誤っているだけではない。危険でもある。なぜなら、重役陣や経営陣にアイデアよりも数字を重んじるいびつな考え方をさせることになるからだ。
利益だけを追求することは美徳ではない
ほかのことをすべて排して、もっぱら利益ばかりを重視すれば、自分たちが社会にどういう害を与えているかに目が向きにくくなる。頭が利益のことでいっぱいになり、社会をよくするためにどういう貢献ができるかについて、広い視野から考えることができなくなる。
また、独善的な態度も生む。自社が前年黒字だったことを喜ぶのと、自社が世の中のためにできる最善のことは、徹底的に利益の増大に努めることだと考えるのとは違う。利益自体を目的として追求し、もっと大きな善を実現するための手段と考えないのは、ひとことでいえば、強欲ということだ。
しかし最近は、単純化された資本主義の見方が広く浸透し、それが美徳と見なされている。このような考え方は社会にも、資本主義の営みにも実害をもたらさずにおかない。
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