花山天皇に代わって一条天皇が即位したことで、藤原頼忠は関白を辞任。また、皇太后の地位には、兼家の娘で一条天皇の生母となる藤原詮子が就いている。
そんな兼家の台頭によって、永延元(987)年には、道長は一気に従三位まで出世。その一方で、父も姉も失脚した公任は、道長に追い抜かれることになる。
その後、摂政として権勢を振るった兼家が死去すると、長男の藤原道隆が後を継いで、関白となるも病死。次に、4男の道兼が関白となるが、たった数日で病死したため、いよいよ5男の道長の時代がやってくることになる。
出世という面では、すっかり停滞した公任だったが、道長と交流を深めていく。道長邸の改築を伴う祝宴に参加したり、一緒に紅葉を観にいったりしている。
だが、その後、1歳年下の親しい友人だった藤原斉信に出世で抜かれると、嫌気がさしてしまったようだ。一時期は参内を辞めてしまっている。
それでも寛弘2(1005)年、官職に復帰した公任。寛弘6(1009)年には、権大納言まで昇進することとなった。
芸術分野でも才能を発揮
あれだけ有望視されながらも、出世という面では後れをとった公任だったが、歌の世界では存分に活躍している。
自身で優れた作品を残しただけではなく、『和漢朗詠集』『拾遺抄』『金玉集』『深窓秘抄』など多くの歌集を編さん。なかでも『拾遺抄』は、のちの『拾遺和歌集』の基になったと考えられており、公任が歌壇で大きな影響力を持つきっかけとなった。
和歌だけではない。かつて藤原兼家が多才な若き公任をみて、我が子に失望しただけあり、さまざまな芸術分野での才能も健在だった。こんなエピソードが『大鏡』に残っている。
道長が大堰川で、船遊びをしたときのことだ。川には3つの船が用意されており、「漢詩が得意な人が乗る船」「管弦が得意な人が乗る船」「和歌が得意な人が乗る船」に分かれて、乗船することになった。
もし今そんなイベントが催されたら「どの船にも乗れない……」という人ばかりになりそうだが、当時は貴族のたしなみとして、いずれも重要視されていた。
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