おのおの自分の得意分野に合わせて、参加者たちが船に分かれて乗り込んでいくと、公任が現れた。道長は、公任の姿を見て「どの船にお乗りになるのだろうか」(原文は「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」)と言ったのだという。
つまり、どの船にも乗ってもおかしくないほど、いずれの分野でも優れていたということだ。
公任は「和歌の船に乗りましょう」(「和歌の船に乗りはべらむ」)と言ってこんな和歌を詠んでいる。
「小倉山 あらしの風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」
小倉山と嵐山から吹きおろす強い風が寒いので、紅葉の落ち葉が人々に降り注いで、誰もが美しい錦の衣を着飾っているようだよ――。
「嵐(あらし)」が掛詞となり、「嵐山」の「嵐」と激しく吹く風の「嵐」が掛けられている。これには周囲も「さすが公任」と感心したが、本人は「漢詩の船に乗ればよかったなあ」(「作文のにぞ乗るべかりける」)と後悔したという。
「それでこのぐらいの漢詩を作ったならば、もっと名が上がっただろうに。残念だったことだなあ」
(さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな)
当時、男性の教養として重要視された漢詩は、和歌よりも格上とされていた。マルチな才能を持つ公任ならではのハイレベルな葛藤といえるだろう。
道長政権を支えた「四納言」
公任は、のちに「四納言(しなごん)」と呼ばれる4人の大納言のうちの1人に数えられる。源俊賢(みなもとの・としかた)、藤原斉信(ふじわらの・ただのぶ)、藤原行成(ふじわらの・ゆきなり)、そして藤原公任……。この4人の大納言に支えられながら、道長は政権を強固にしていく。
公任は舟遊びでの自身の活躍を振り返って「『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし」とも言っている。
道長から「公任は一体、どの船に乗るんだろうなあ」と言ってもらえたことが、「われながら心おごりせられし」、つまり、「得意にならずにはいられなかった」という。
出世という点では、大きな差がついた道長と公任。それでも、2人の友情が変わらなかったのは、道長が公任に対する芸術面でのリスペクトを惜しまなかったからではないだろうか。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら