というのも、村上天皇のもとには、師輔の娘である安子と、実頼の娘である述子が入内していたが、述子は早世。皇子女をもうけたのは安子のほうだった。
外戚になれなかった実頼は軽んじられて、代わりに実権を握ったのは、師輔の子どもたちである。つまり、同母の3兄弟である、長男の藤原伊尹、次男の藤原兼通、そして、3男の藤原兼家だ。
追い抜いたはずの兄に干された藤原兼家
天禄元(970)年、実頼が病死すると、名実ともに、師輔の子どもたちの時代となる。長男の藤原伊尹が、円融天皇の摂政に就くこととなった。
そんな伊尹の勢いに引っ張られるように、3男の兼家はその前年の安和2(969)年に中納言となり、次男の兼通を追い越すこととなる。さらに天禄3(972)年には、大納言まで出世している。
自分に風が吹いてきた――。人生が回り始めたかにみえた兼家は、そう感じていたに違いない。
だが、その矢先に伊尹が病によって倒れてしまう。代わりに兼家がさらに台頭するかと思いきや、存在感を高めたのは、意外にも次男の兼通のほうだった。
伊尹が天禄3(972)年10月に辞表を出すと、兼通はすぐさま権中納言・内覧となったばかりか、翌月の11月に伊尹が死去すると内大臣に昇格。関白にまで任命されている。
弟の兼家に追い抜かれたはずの兼通が逆転して、メインストリートに躍り出たのは、円融天皇と安子の意向だったようだ。兼家の運命は一転して、不遇の時代を過ごすことになる。
しかし、父や兄の人生を見てきた兼家は、案外に絶望していなかったのではないだろうか。禍福は糾える縄の如し。「流れはまた来る」と信じていたことだろう。
存命中はとことん、弟の兼家の出世を邪魔した兼通。一時期は自分を抜いて出世した、兼家のことがよほど気に食わなかったのだろう。
重い病にかかって、いよいよ死が近いと悟った兼通は、いきなり天皇に除目の執行を奏上。後継者の関白として、従兄の藤原頼忠を指名している。そればかりか、兼家から右大将・按察使の職を奪って、治部卿に格下げさせたという。
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