いくら弟に憎しみがあったとしても、そこまでやるものだろうか。陰湿さに呆れてしまうが、兄の兼通が死の間際に暴挙に出たのは、弟の兼家のふるまいに原因があったようだ。
『大鏡』によると、兼通が病に伏せていると、自分の屋敷に兼家が向かってくるのが見えたという。「弟が見舞いに来たのか」と喜んでいたが、兼家がやってくることはなく、天皇のいる内裏のほうへ。
激怒した兼通が病をおして内裏に行ったならば、天皇と兼家が関白の譲位について話し合いをしていたという。その後、前述したように、兼通は関白の後継者に、藤原頼忠を強行指名することとなる。
最後の最後まで兄の兼通に出世の邪魔をされた兼家だったが、背景を知れば、どっちもどっちという気もしてくる。出世争いというものは、何か人間として大切なものを失うらしい。
兼通に干されてからというもの、兼家は自宅に引きこもっていたが、兼通が死去すると、天元元(978)年6月から、再び出仕する。もう二度とレールから外れてなるものかと、兼家は出世への布石を打ち続ける。
次女の詮子を円融天皇に入内させたのち、右大臣に任ぜられた兼家。詮子が円融天皇との間に、男の子の懐仁を出産すると、円融天皇から譲位された花山天皇を巧みに退位させて、孫の懐仁が一条天皇として即位する。外祖父となった兼家はついに摂政となり、政権の座に就くことになった。
出世した藤原道隆が引き上げた人物は?
出世のビッグウェーブにのった兼家がやったのは、自分の子どもたちを引き上げることである。先頭を走ったのが、兼家の長男・藤原道隆だ。
寛和2(986)年7月5日、34歳の道隆は三位中将から参議を経ることなく、一気に権中納言になっている。そのうえ、同日に詮子が皇太后になったため、皇太后宮大夫となった。
そして、7月20日に兼家が右大臣を辞職した際には、道隆は5人を追い抜き、権大納言にまで出世。2日後の22日に一条天皇が即位すると、その日に従二位となり、さらに4日後の26日に正二位になっている。同月に3回も昇進するのは異例のことだ。なりふり構わない兼家の手腕には驚かされるばかりである。
そんな道隆もまた、自分にしてもらったように、我が子たちを引き上げていく。
長男の道頼と3男の伊周をともに出世させていく。とりわけ道隆が目をかけたのが、嫡妻の高階貴子との間に生まれた伊周である。
正暦3(992)年、伊周は19歳の若さで、権大納言に任ぜられている。この時点で、権中納言だった道頼を含めて5人を追い抜き、叔父の藤原道長と並ぶこととなった。そして、翌々年には伊周は内大臣にまで上り、権大納言にとどまる道長を抜き去っている。
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