『不適切にも』TVにとっての"コンプラ"現在地 クライマックスをミュージカルにするのはなぜ
こう見ると、犬島の職場をテレビ局に設定しているのがひとつポイントなのだろう。もちろんテレビ局も企業のひとつなので、業種に関係なく関係するコンプラの問題がある。
だがその一方で、テレビというメディアが映像や言葉の表現に携わる仕事であるがゆえに出てくるコンプラの問題がある。その両面を視野に入れた物語が、今後も展開することになるのかもしれない。
“対話”を演出するミュージカル場面
演出という点で、このドラマを見て最初「エッ!?」と驚くのはミュージカル場面だろう。
毎回クライマックスになると、いきなりミュージカルになって阿部サダヲをはじめ出演者、店にいる客やオフィスの社員まで全員が歌って踊り出す。そして昭和と令和それぞれの立場からの考えや意見を歌で伝えるのである。
こういう演出にした意図はどこにあるのだろうか?
ひとつは、コンプラという話題が硬くなりがちなため、ミュージカルにすることで雰囲気を和らげるということはあるに違いない。報道番組ではなくドラマ。あくまでエンタメである。実際、居酒屋や職場が突然華やかなステージと化す様子は、意外な俳優の歌とダンスが見られることも相まって無条件に楽しい。
だが、それだけではないだろう。もうひとつ感じるのは、ミュージカルにすることで“対話”が強調されるということだ。
ミュージカル場面で、登場人物は昭和の価値観と令和の価値観を互いにぶつけ合う。この場面を普通のセリフによる芝居にするという選択肢も当然あるだろう。
しかし、ミュージカルの演出にすることによって、異なる価値観同士が互いを否定するのではなくひとつの音楽という共通の土台の上で語り合っている印象が強まる。つまり、“対立”ではなく“対話”であるという印象が強まる。
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