織田信雄と徳川家康を相手に、羽柴秀吉が戦った小牧・長久手の戦いの後、秀吉は石川数正を通じて、家康の次男・於義伊(のちの結城秀康)を人質に出すように迫ります。これは家康に臣下の礼を取らせるための、重要な布石でした。
しかし、家康の家臣団は小牧・長久手の戦いで勝ったのは自分たちであり、なぜ、あんな成り上がり者に、大切な於義伊さまを渡さなければならないのか、納得しません。
しかし秀吉の実力はすでに20カ国に及び、それに比べて家康は5カ国しかもっていません。秀吉が本気で戦を挑んでくれば、徳川家は間違いなく滅んでしまうでしょう。
それがわかる外交眼を持っていたのが、数正でした。
人もお金も不要! コスパのよい戦術
於義伊を人質ではなく、秀吉の養子に入れるのだといって、ようやく三河の武士団を納得させたのですが、秀吉はそれでも上洛して挨拶をしない家康に業を煮やし、ついには月日を切って、開戦する旨を数正に伝えました。秀吉はすぐさま、10万の大軍を動員する準備に入ります。
石川数正が徳川家康を裏切って、羽柴秀吉側に走ったのは、まさにこのタイミングでした。ついに秀吉は、徳川家のナンバースリーを手に入れたわけです。
徳川家の戦い方を一から十まで知っている人間が、敵陣営にいる以上、徳川の家臣たちはすぐに戦うことができません。数正は家康方の弱点を、ことごとく熟知しているのですから。
余裕の出た秀吉は、強硬路線から家康を懐柔する方針に切り替えました。自分の妹を家康の妻=正室とし、さらにはその妹の見舞いを名目に、母親まで人質として家康に差し出したのです。ここまでされては、家康も秀吉に応じざるをえません。
ついに家康は上洛し、秀吉への臣下の礼を取ることになりました。
秀吉は戦わずして、家康の戦力を削ぎ、上下をはっきりさせることができたのです。人もお金もほとんどかけずに大きな目的を達成したわけですから、とてもコストパフォーマンスのよい戦術と、いうことができるでしょう。
余談ですが、筆者はこのおりの石川数正の主君家康への裏切りを、主君および徳川家臣団を守るための、思い余った苦肉の策であったと考えてきました。読者の皆さんの見解はいかがでしょうか。
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