信玄の「赤備え」無敵伝説は"イメージ戦術"だった 大久保利通も「鳥羽・伏見の戦い」で用いた手法

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スポーツにおいても、このピッチャーが出てきたらもう打てないとか、ビジネスでもこの会社の人たちはきわめて優秀だから太刀打ちできないとか、知らず知らずのうちにイメージに惑わされ、戦う前に勝負がついている場面はよくあるものです。

恐れるほうではなく、恐れられる側に回るにはどうしたらいいのでしょうか?

「錦の御旗」を立てて幕府軍を撃退

イメージをうまく利用して相手の戦意を喪失させた例は、幕末にもありました。

幕末に、旧幕府軍と薩摩藩兵が激突したのが鳥羽・伏見の戦いです。旧幕府の連合軍1万5000に対して、薩摩藩兵はわずかに3000人であり、5倍の敵を相手に勝つためにどうすればいいか、薩摩藩の大久保利通は戦術を練りました。

初日の戦闘では、新式のミニエー銃を装備した旧幕府軍が優勢な場面もあり、薩摩藩兵には形勢逆転に向けた、さらなる策が必要でした。

戦況がひっくり返ったのは、翌日の戦闘です。

薩摩軍の陣地に「錦の御旗」が掲げられたのです。旧幕府軍の兵は、みな青ざめます。なぜなら、この瞬間から薩摩軍は天皇の勅命を受けた官軍となり、旧幕府軍は天皇に弓を引く賊軍、“朝敵”となったからです。戦意を喪失した旧幕府軍はじりじりと後退し、官軍に次々に撃破されていきました。

大久保のイメージ戦略が完全にハマったわけですが、実は当時の人は誰も本物の「錦の御旗」を見たことがありませんでした。歴史上では、例えば鎌倉時代の承久の乱(1221年・承久3年)において、後鳥羽上皇が「錦の御旗」を10人の武将に与えています。

しかし、当時に使われた錦の御旗が、そのまま幕末まで残っていたわけはありません。誰も御旗がどんなものなのか、皆目知らなかったのです。

大久保は長州藩士の品川弥次郎とともに、文献資料をもとに、それらしく「錦の御旗」を制作しました。幕臣たちは武士の教養として、『吾妻鏡』や『太平記』を読んでおり、「錦の御旗」のもつ意味がわかっていたため、「あれが錦の御旗か」と恐れおののいたわけです。おそらく大久保の、想像以上の効果をあげたことでしょう。

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