高校3年生のとき、ある友人に「あなたは八方美人ね」といわれました。
言葉とは不思議なもので、それが何十年前のものであったとしても、大きな影響をもたらしたものは鮮明に覚えています。
その友人がどんな意図でいったのかはわかりません。でも、面と向かって突然言われ、動揺しました。また、自分はそんなふうに見えていたのかと傷つきもしました。
今思えば、当時は、人から嫌われたくないという思いが強く、それが行動にも表れて「八方美人」という言葉になったのでしょう。その後、自分の意思をもっと大切にしようと意識するようになりました。
それでもまだ、完全に自分を変えるには時間と経験が必要でした。
「鎧を着ている」と言われて
20代後半、ふたたび私は、核心をついた指摘を受けます。教職員研修の一環として、カウンセリングのワークショップに参加したときのことです。
ロールプレイでクライアント役をしていた私に、講師がこう言いました。
「あなたを見ていると、鎧を着ているみたい。あなたは長い間イミテーションの部分がかなりあったのではないでしょうか」
「イミテーション(にせもの)」という言葉は、まさに図星でした。当時の私は、八方美人と指摘された頃と同じように、人の顔色を伺いながら行動していたのです。ハッとする私に、次の問いが投げかけられました。
「自分と本気で、とことん向き合いましたか」
なにも答えられず、ただ涙があふれ、人前にもかかわらずつきものが落ちたように泣きじゃくったことを覚えています。
当時は、子育てが始まったばかりで慣れないことだらけ。また教員としての経験も浅く、「こうあらねばならない」「こんなふうに見られたい」という思いにがんじがらめになっていました。
その頃の教え子に会うと、「あの頃の先生は、ほんとにすごく遠かった」「昔の先生は、顔がこわばっていて怖かった」と指摘されます。「もう、昔のことは言わないで」と冗談交じりに頼みつつ、申し訳なかったと心の中で謝るのです。
そのときは泣くことしかできませんでしたが、少し時間を置くと、改めて自分という存在を鎧に押し込め、取り繕っていたのだと気づきました。
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