今年はクイーンが出場「紅白」のひと味違った見方 「海外アーティスト出場」の歴史を振り返る

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戦後直後に始まり今年で74回の歴史を誇る『紅白』は、かつては80%を超える驚異的視聴率を記録したこともあって「国民的番組」と呼ばれてきた。日本を代表する歌手がその年のヒット曲を歌い、視聴者はそれを聞きながら1年をしみじみと振り返る。そんな大晦日の風物詩のイメージが『紅白』にはある。

だが、長い『紅白』の歴史を振り返ってみると、海外アーティストが出場したケースは意外に多い。いつ、どのアーティストが出場し、どんなパフォーマンスをしたのか、時代背景とともに『紅白』のもうひとつの歴史を振り返ってみよう。

世界情勢を反映した1990年の『紅白』

1980年代にも、韓国、香港などアジアの歌手が出場するケースがあった。代表的なひとりが、「釜山港へ帰れ」(1982年発売)が日本でもヒットしたチョー・ヨンピル。1987年に、韓国人歌手として初めて『紅白』に出場し、それから4年連続で出場した。

だが海外アーティスト出場の多さという点で画期的だったのは、1990年の『紅白』。フィリピンのガリー・バレンシアーノ、ソ連のアレクサンドル・グラツキー、モンゴルのオユンナ、さらにこの後ふれるようにアメリカ人アーティストも複数組出場するなど、空前の出来事が起こる。

背景には、世界情勢の激変があった。1989年に東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊。そして翌年東西ドイツの統一があり、長かった冷戦体制が終わりに向かう。同じ1990年の『紅白』では長渕剛がベルリンからの中継で15分以上にわたり3曲を披露し、いまも伝説として語り継がれている。そのなかでの海外アーティストの大挙出演だった。

アメリカ人アーティストとしては、R&B歌手のアリスン・ウィリアムズもアメリカからの中継で久保田利伸とデュエットを披露したが、なんといっても話題を呼んだのは、シンディ・ローパーとポール・サイモンの出場だった。

シンディ・ローパーは、「ハイ・スクールはダンステリア」(1984年発売)のヒットなどで日本でもブレーク。このときの『紅白』では番組のためにわざわざ来日した。親日家として知られる彼女らしく、ステージには駕籠に乗って登場。そして着物を身につけて「I Drove All Night」(1989年発売)を熱唱した。

ポール・サイモンは、サイモン&ガーファンクルのデュオで数々のヒットを飛ばしたビッグネーム中のビッグネーム。このときはアメリカ・ニューヨークからの衛星中継で、日本でも広く知られる名曲「明日に架ける橋」(1970年発売)を歌った。

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