しかし、年をとっていくと、ほんまに使ってもらえなくなるのです。ジリ貧になって、どうしようもなくてやめる。ところが、そこから第二の人生を始めるには遅い。20代でやめていたら、何とかなったけれども、30代まで引っ張ると、本当にダメで。プロとして1回戦、2回戦で落ちるようなヤツはもうやめさせようと。
楠木:それで実際にやめていった人も出てきたのでしょうか。
谷:直接ではなかったかもしれないけれど、やめた人もたくさんいましたね。
楠木:ここまでM-1が長く続くことについて、当時はたぶん誰も意図してなかった、もう1つの機能があるように思っています。今でもバラエティ番組や、漫才の形式をとらないお笑いコンテンツはたくさんあって、そちらに流れる傾向がある。
しかし、年に1度、M-1のような真剣勝負の場があることで、芸人さんたちを本筋の漫才に引き留める効果があるのではないかと思うのです。最近では、小籔千豊さんのように、ベテランが新しくコンビを組み直して挑戦することもあるみたいですね。
谷:あれは洒落で組んでいるかと思いますが、才能のある人が漫才に入ってくる効果はあるかもしれませんね。
楽屋裏はどこまで見せるべきか?
楠木:ご著書で触れられているのはM-1の2年目までの話ですが、これからの漫才について聞きたいと思います。
M-1をきっかけに、漫才師がまたエンターテインメントの中心になったり、インターネットやYouTubeのようなものが出てきて、今はお笑いの文脈がとんでもなく濃いですよね。見ている側は素人で、業界の人間でもないのに、先輩後輩とか吉本興業の人間関係まで知っている。提供する側もそういうことが全部わかっているうえで、おもしろいコンテンツが成立している。僕はあまりテレビを見ないのでわからないのですが、ネット記事を見ると、そういう傾向があるように感じます。
それに対して、僕の古典的な芸の定義は、楽屋の裏とかと一切無関係に成立すること。事前知識がない人でもおもしろいのが本来の芸だと思うのです。時代が移るとともに芸の内容も当然変わっていくべきだとは思いますが、それにしても、あまりにも背後の文脈が濃すぎて、今後どうなるのかなと思ったりしませんか。