また、「サードプレイス」の要件として、「誰にでも開かれている」ことが挙げられる。確かにスタバは、商品の代金さえ支払えば誰でも入ることができる。しかし、スタバに入ることにどことなく抵抗感を覚える人も多いのではないだろうか。
以前ほどは語られなくなったが、かつてはネット上で「スタバでMacのPCを使う人」がネタとして語られることが多かった。もちろん実際にスタバで観察をしてみると、そこにいる人々がMacのPCばかりを使っているなんてことはない。「多い」というよりも「多い(ように思える)」が正しいだろう。
けれども「スタバ」という空間が、ある特定の人々に好まれる独特な空間だというイメージを持つ人々がいることを、このネタは表しているのではないだろうか。
単純に言えば、「スタバを使う人々の雰囲気」なるものがある。その雰囲気に合致しない人々にとって、スタバに入ることはどことなく居心地の悪さを覚える。スタバを使う人々の「雰囲気」や、彼らが持つ「妙な一体感」に、腰が引けてしまうのだ。
『月刊食堂』において、ライターの京極一がこの点を鋭く指摘している。曰く、スタバのブランディングを見ていくと、「他のコーヒー店とスタバがいかに異なるか」という、顧客の特権意識を刺激するようなプロモーションが多く行われているという。
例えばスタバの店内にあるボードには、スタバがいかにSDGsに配慮しているかがアピールされている。そこで表される「選民意識」的なものが、スタバのスタバらしさを作っているのだ。
この記事を読んでいる方の中にも、普段使いでスタバに行く人もいれば、ちょっとスタバの雰囲気は馴染みにくくてほとんど入らない、という人の両方がいるのではないだろうか。おそらく、その差をスタバは意識的に作ろうとしている。しかしそれは明らかに「サードプレイス」の「開かれた」思想とは異なる方向を向いているのだ。
ここにも、「サードプレイス」であって「サードプレイス」ではない、スタバの矛盾が表れる。
スタバが作り出す新しい「サードプレイス」
何度も言うが、私はスタバが「サードプレイス」を掲げながら、そこが実は「サードプレイス」の要件を満たしていないことについて、否定的に語るつもりは全くない。
むしろ、スタバはそのような独特のスタンスによって、非常に特殊な「サードプレイス」を作っているのではないか、と思っている。
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