3つ目の伊賀越えでは、織田信長がいきなり重臣の明智光秀に討たれるという「本能寺の変」によって、家康らは明智軍や落ち武者狩りに狙われることに。一度は自決さえ考えたが、協力者たちの力添えを得て、険しい山道を越える伊賀越えを成功させている。
いずれの危機も、家臣の存在がポイントとなっている。味方につけると頼もしいが、ないがしろにすると、危機的な状況に陥ってしまう。それが家臣というものである。家康は祖父も父も、家臣によって殺されていることからも、そう実感したに違いない。
三方ヶ原の戦いでの敗戦後は、たびたび「宝の中の宝というは人材に如くはなし」と口にしたともいわれる家康。豊臣秀吉が太閤だった頃、「宝物は何か」と尋ねられたことがあった。このときの家康の返答は語り草となっている。
「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」
やりとりが本当にあったかどうかはともかく、家康が家臣を大切にし、それぞれの実力を最大限に引き出したのは確からしい。なかでも家康を支えた重要人物とされているのが「徳川四天王」、つまり、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人である。
乱世が終わろうとするなか、4人はどのような最期を迎えたのだろうか。
重要視された酒井忠次の存在
家康は三河一向一揆をなんとか鎮めたあとに軍制改革を行い、「三備体制」を整備。東と西の2組に編成し、東の旗頭として、酒井忠次を抜擢している(記事「徳川家康、側室すら適材適所で使う組織固めの凄さ」参照)。
ちなみに、西の旗頭となったのが石川家成だ。のちに甥の数正に旗頭を譲るが、数正はまさかの出奔。秀吉側へと走ったため、酒井忠次の存在が、ますます重要視されることとなった。
忠次といえば、大河ドラマで「海老すくい」を踊るムードメーカーとして知られるが、15歳年上の重臣は家康にとっては頼りになる存在だったらしい。
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