嫌われ者でも「家康の信頼は絶大」ある男の最期 「徳川家康の最期」を見送ったある武将とは

✎ 1〜 ✎ 51 ✎ 52 ✎ 53 ✎ 54
拡大
縮小

3つ目の伊賀越えでは、織田信長がいきなり重臣の明智光秀に討たれるという「本能寺の変」によって、家康らは明智軍や落ち武者狩りに狙われることに。一度は自決さえ考えたが、協力者たちの力添えを得て、険しい山道を越える伊賀越えを成功させている。

いずれの危機も、家臣の存在がポイントとなっている。味方につけると頼もしいが、ないがしろにすると、危機的な状況に陥ってしまう。それが家臣というものである。家康は祖父も父も、家臣によって殺されていることからも、そう実感したに違いない。

三方ヶ原の戦いでの敗戦後は、たびたび「宝の中の宝というは人材に如くはなし」と口にしたともいわれる家康。豊臣秀吉が太閤だった頃、「宝物は何か」と尋ねられたことがあった。このときの家康の返答は語り草となっている。

「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」

やりとりが本当にあったかどうかはともかく、家康が家臣を大切にし、それぞれの実力を最大限に引き出したのは確からしい。なかでも家康を支えた重要人物とされているのが「徳川四天王」、つまり、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人である。

乱世が終わろうとするなか、4人はどのような最期を迎えたのだろうか。

重要視された酒井忠次の存在

家康は三河一向一揆をなんとか鎮めたあとに軍制改革を行い、「三備体制」を整備。東と西の2組に編成し、東の旗頭として、酒井忠次を抜擢している(記事「徳川家康、側室すら適材適所で使う組織固めの凄さ」参照)。

ちなみに、西の旗頭となったのが石川家成だ。のちに甥の数正に旗頭を譲るが、数正はまさかの出奔。秀吉側へと走ったため、酒井忠次の存在が、ますます重要視されることとなった。

忠次といえば、大河ドラマで「海老すくい」を踊るムードメーカーとして知られるが、15歳年上の重臣は家康にとっては頼りになる存在だったらしい。

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事
トレンドライブラリーAD
連載一覧
連載一覧はこちら
人気の動画
【田内学×後藤達也】新興国化する日本、プロの「新NISA」観
【田内学×後藤達也】新興国化する日本、プロの「新NISA」観
【田内学×後藤達也】激論!日本を底上げする「金融教育」とは
【田内学×後藤達也】激論!日本を底上げする「金融教育」とは
TSUTAYAも大量閉店、CCCに起きている地殻変動
TSUTAYAも大量閉店、CCCに起きている地殻変動
【田内学×後藤達也】株高の今「怪しい経済情報」ここに注意
【田内学×後藤達也】株高の今「怪しい経済情報」ここに注意
アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
会員記事アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
トレンドウォッチAD
東洋経済education×ICT