嫌われ者でも「家康の信頼は絶大」ある男の最期 「徳川家康の最期」を見送ったある武将とは

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外交面でも忠次は徳川家臣を代表する立場にあった。永禄11(1568)年12月には、大井川を境にして、駿河は武田、遠江は徳川が奪い取るという密約が結ばれるが、このときに信玄は、穴山信君を酒井忠次のもとに派遣している。他の大名から見ても、家臣を代表する存在だったことがわかる。

結局、家康と信玄は決裂し、武田家とは長きにわたり対立。最後の戦いとなったのが「長篠の戦い」であり、徳川軍と織田軍が連合して、武田勝頼が率いる武田軍と激突する。このときには合戦前夜に、忠次は信長の前で、海老すくいを披露して喜ばせたという。

そして、いざ戦となれば、奇襲作戦を提案。信長からは却下されるも、家康には採用されて、武田軍を追い詰めるのに一役買っている。

天正14(1586)年10月に家康が上洛した際には、忠次も同行したところ、秀吉から近江に1000石の地を与えられている。おそらく、忠次の実力を警戒して、秀吉は家康から忠次を引き離そうと考えたのだろう。

その2年後に忠次は隠居。慶長元(1596)年に京都で死去し、70年の人生に幕を下ろした。

有能な井伊直政らしい最期

忠次と同じく外交の窓口として活躍したのが、井伊直政である。

今川家の支配下にある国衆の一つである井伊家は「桶狭間の戦い」で、当主が命を落とす。井伊家が存続の危機に陥るなかで、15歳になった直政(当時は虎松)が、徳川家康に仕えたことで、井伊家は再興の道をたどることになった。

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外交の窓口として活躍。井伊直政の像(写真: チョリン / PIXTA)

井伊は徳川と対等な家格で、築山殿を介して、家康とは親族関係になる。そんな直政は対外的に使者として送り出すのに、格好の人材だったようだ。

もっとも家柄だけではなく、実力も兼ねそろえていた。徳川が豊臣政権のなかに取り込まれると、直政は調節役としてさらに重用され、諸大名や公家らと交際しながら、大名と同格として扱われている。

一方で、戦場に出れば、「井伊の赤鬼」と恐れられるほど暴れ回った。家康は直政の部隊に武田の軍法を継承させたが、その期待に十分に応えたといえよう。

しかし、慶長7(1602)年2月1日、42歳の若さでその生涯を閉じる。約2年前の関ヶ原合戦時の鉄砲傷が治らなかったとも言われている。

ほかの重臣に比べて早い死となったが、活躍しすぎたゆえの最期だと思えば、直政らしい人生だったともいえるのではないだろうか。

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