直政の死から4年後、慶長11(1606)年5月14日に死去したのは、榊原康政である。康政はもともと酒井将監忠尚の小姓だったところを、13歳で家康に召し出されて側近となった。
酒井忠次が旗頭となった「三備体制」において、康政は19歳にして「旗本一手役之衆議」に抜擢。その後は戦を重ねるごとに存在感を増していった。豊臣秀吉と激突した「小牧・長久手の戦い」では、秀吉を逆上させる檄文を書いて、注目を集めている。
挑発された当時は怒り狂った秀吉だったが、のちに「今では遺恨もなくなり、かえって主君への忠義に感服するばかりだ」と、康政の忠義ぶりを評価。自分と同じく知略を武器にしたこともあって、秀吉は康政にシンパシーを感じたのかもしれない。
康政が支えたのは家康だけではなかった。家康の息子の秀忠が関ヶ原の戦いで遅参したときは、懲罰をも覚悟して秀忠をかばっている。
秀忠も恩義に感じていたのだろう。康政が皮膚の感染症を患うと、秀忠は病床へ見舞いに訪れている。だが、その甲斐もなく、病が侵攻し、康政は59歳でその生涯を閉じている。
本多忠勝の意外な「辞世の句」とは?
さらに4年後、慶長15(1610)年、「徳川四天王」の生き残りだった本多忠勝が生涯を閉じる。
幼少期に父を失った忠勝が、初陣を飾ったのは13歳のときのこと。桶狭間の戦いにおける大高城への兵糧入れで戦場に出て以来、場数を踏むにつれて、勇猛な武将として名を轟かせた。
「生涯57回の戦で1度もかすり傷を負わなかった」という逸話が残っているほどの猛々しさで、その活躍ぶりは、織田信長から「花実兼備」(花も実もある武将)と絶賛されている。
しかし、関ヶ原の戦いが終わり、家康が江戸幕府を開いてからは、段々と影を潜めていく。隠居を申し出て、家康にいったんは慰留されるが、その後、眼病を患った忠勝は、嫡男に家督を譲っている。
慶長15(1610)年、2月には徳川秀忠の狩りに同行していたが、同年10月に、桑名の地で死去している。63歳だった。
それでも戦場であれだけ暴れ回ったのだ。その生涯に悔いはなかったかと思いきや、意外な辞世の句を残している。
「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな……」
「死にともな」とは「死にたくない」の意味だ。忠勝らしからぬ弱気な言葉だが、その後に「深き御恩の君を思えば」という言葉が続いている。
「御恩の君」とは、家康のことだ。家康への恩義を考えれば、まだまだ死にたくない。忠勝は主君を見送れない無念さを、最期の句に込めたのである。
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