家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に

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豊臣家ゆかりの寺院である方広寺大仏殿の再建を志したのが、秀吉の子・秀頼であった。再建途上で火災により消失するが、それでも秀頼は諦めなかった。

慶長14年(1609)から再建の準備に入り、翌年に工事開始。慶長17年(1612)に大仏が完成した。大仏殿が再建されたのは、慶長19年(1614)のことだった。

大仏殿の再建は、亡き父・秀吉の追善供養ということもあるが、豊臣家の威信をかけたプロジェクトとなっていた。

後水尾天皇から勅定(天皇の決定)を得て、同年8月3日には、大仏の開眼供養が行われることになった。

その直前の7月上旬には、大坂から秀頼の使者が駿府の家康のもとに遣わされ、秀頼からの進物(金・太刀・馬)が献上されており、この時点では、徳川と豊臣の間に、方広寺をめぐる対立は起きていない。

だが7月21日、家康は、金地院崇伝(臨済宗の僧侶)と板倉重昌を呼び、方広寺大仏殿の鐘銘は「徳川方にとって不吉な語句がある。上棟の日も吉日ではない」と激怒した。方広寺の梵鐘に刻まれた言葉が、家康の機嫌を損ねたのだ。

家康の二文字を分断する言葉が刻まれる

その言葉は「国家安康」「君臣豊楽」。「国家安康」は国の政治が安定していることを意味する。「君臣豊楽」は、君主から民衆に至るまでが豊かで楽しい生活を送るという意味で、どちらもとても縁起がよいように思う。だが、家康はそれを不吉と捉えた。

「国家安康」は「家康」の2文字を分断している、「君臣豊楽」は「豊臣」を君主として楽しむ、という意味ではないかと疑ったのだ。

どうする家康 大河ドラマ
「国家安康」「君臣豊楽」の2字(写真: 46-2 /PIXTA)

8月3日、2代将軍・徳川秀忠は、方広寺大仏殿の再建供養を延期することを命じる。このことに、天下の人々が驚き、騒ぎになったという。徳川と豊臣の間に衝突が起こるのではないかと懸念したのだ。

大坂方の片桐且元は、8月3日に開眼供養と堂供養を行いたいと申し入れた。8月18日には、豊国神社で臨時祭(秀吉の17回忌)が行われるからであった。

しかし、徳川方の主張に変化は見られなかった。大仏開眼供養などを延期し、吉日を選び、行うよう要請したのだ。

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