家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に

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片桐且元は秀頼の命により、8月13日に駿府に赴く。片桐且元は、応対した金地院崇伝と本多正純に対し「秀頼から家康・秀忠に対し、叛逆の意思はないとする起請文を提出しよう」との提案を出した。

ところが、家康はそれを拒否する。片桐且元は、約1カ月もの間、駿府に滞在したが、解決策を見いだすことができず、大坂へと戻ることになった。片桐且元の足取りは重かったに違いない。徳川方からは鐘銘問題とは別に、次の3カ条の案が持ちかけられていたからだ。

その案というのは「豊臣氏は大坂城を明け渡して国替えすること」「豊臣氏は、ほかの大名と同じく江戸に屋敷を持ち、住むこと」「それらが不可能ならば、淀殿(秀頼生母)を人質に出すこと」というものであった。

それにしても、徳川方(家康)はなぜ、突然このようなことを言い出したのか。

それは、大坂方が軍備増強をしており、そのような態度を改めて、淀殿が江戸か駿府に住むならば、秀頼は今後長く生きることができよう、との理由からであった(『駿府記』)。

そうした理由から、家康は先の3カ条の提案をしたのだ。秀頼らがもし「野心」を改めなければ、天下の軍勢が大坂城を攻め落とすであろう、という家康の強硬な態度。大仏殿をめぐる騒動で、秀頼らが徳川方に謀反を起こすのではないかとの話もあり、家康は警戒していたのかもしれない。

片桐且元の殺害命令が下される

片桐且元が大坂に戻った9月18日、大坂方にこの3カ条が示された。もちろん、秀頼や淀殿がこのような提案をのめるはずはない。秀頼と淀殿は機嫌を損ね、秀頼は片桐且元を殺せと命令を出したという。

殺害指令を知った片桐且元は、大坂城内の自邸に籠もった。だが、大野治長らの軍勢が自邸を取り囲んだ。

片桐家の者たちは、屋敷に籠もり、一戦する覚悟であったが、片桐且元は「攻めてくる者に矢を放ってはならない。しかし、屋敷の壁を登る者あらば、槍の柄で退けてもよい」との命令を出している。

秀頼に敵対する気持ちは毛頭ないことを示そうとしたのだろう。一触即発の事態だったが、片桐且元らが大坂城を出て高野山に向かい、出家するということで、一戦は避けることができた。

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