「よしなに」「空中戦」それ実は若者に通じないかも 「若者と年配者」の会話が成り立たない根本理由
濡れ手で粟:なんの苦労や努力もなしに、利益を得ること。水に濡れた手で小粒の穀物である粟をつかめば、手にいっぱいくっついてくることから(159ページより)
のれんに腕押し:軒先の日よけや屋内の仕切り用として、ひらりと垂れている布のれん。それを腕に力を入れて押しても手応えがない。そこから、相手にいろいろ働きかけをしても反応がなく、張り合いがない、の意(161ページより)
敷居が高い:不始末があったり不義理をしていたりなどで、その人の家へ行くのにどうも気が引ける。行きにくい意。敷居とは、戸などを開け閉めするための溝がついた横木。敷居が高いと、またぎづらいことから(165ページより)
お座敷がかかる:仕事を依頼される。あることで人に招かれる。芸者や芸人などが客に呼ばれる、という本来の意味から派生(165ページより)
どの世代も気づきが得られる
先にも触れたとおり、なにかと「若者はこうだ」と結論づけようとするところに多少の抵抗を感じるのは事実だ。なるほど「上の世代からすれば常識的なことを知らない若者が“驚くほど増えている”のかもしれないが、そんなことを言い出したところでなにも解決しないからだ。
ましてやそういった言説を若者が目にしてしまったとしたら、上の世代との間の分断はさらに深いものになってしまうだろう。だからこそ、必要以上に世代間ギャップを強調するべきではないと私は思う。
その点については指摘せざるを得ないが、しかし、そういった世代論とは別の次元で、本書の内容は非常に興味深くもある。なぜなら世代に関係なく、読者はここからさまざまな知識をインプットできるはずだからだ。
いや、それ以前に、パラパラとページをめくり、目についた項目を流し読みするだけでも楽しく、大きく役に立つに違いない。
たとえば若者であれば、「へー、こんな言葉があったのか」と新たな知識を得ることができる可能性は大きい。一方、上の世代も「そういえば、こんな言葉があったなあ」と、忘れかけていたことを思い出すかもしれない。
逆に、「このくらいのことは知ってるよ」という若者だってもちろんいるだろうし、「これは知らなかった」と上の世代が新たな気づきを得ることも考えられる。
つまりは世代がどうであれ、「へー、そうだったのか」「おっと、うっかり忘れていたぜ」というような気づきや思いを本書は与えてくれるのである。
したがって年末の「ケツカッチン」な状況でも、気軽に楽しむことができることだろう。
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