人気芸人でも敗退、M-1「番狂わせの歴史」の起源 創設者が解き明かす「裏方目線」のM-1誕生秘話

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今年の決勝は12月24日。午後3時から午後6時30分までが「敗者復活戦」で、そのまま決勝に入り、午後10時10分まで、約7時間ぶっ通しでテレビ朝日系にて放送されることとなった。

お笑いファンのみならず、年末の風物詩として多くの人が話題にし、優勝者には毎年“M-1ドリーム”と呼ばれるくらい多くの仕事が舞い込むほどの影響力を持つ「M-1グランプリ」。

そのルーツを記した『M-1はじめました。』(谷良一著)が売れている。帯に一文を寄せたのは島田紳助氏。「M-1は、私と谷と2人で作った宝物です」とある。片側には「崖っぷちから始まった起死回生の漫才復興プロジェクト」と記されている。

放送作家も知らなかった「漫才・冬の時代」

1980年代の漫才ブームから近年まで、ずっと“お笑い番組”があり、多くの漫才師が売れっ子になっていった印象を、バラエティ専門放送作家である私でさえ持っていたのだが、実はM-1がスタートする前は、吉本の各劇場でさえ漫才を行うことが禁じられるほどの「漫才・冬の時代」があったという。

1981年に吉本興業に入社し、横山やすし・西川きよし、笑福亭仁鶴、間寛平ら同社のトップスターを担当するマネージャーを経て、「なんばグランド花月」などの劇場プロデューサーや支配人、テレビ番組プロデューサーを務めるなど、花形社員だった谷良一氏。

そんな谷氏と私は『恋のから騒ぎ』(日本テレビ系)で初めて一緒に仕事をした。私は放送作家の一人で、氏は吉本側のプロデューサーだった。

その後、谷氏が大阪に戻り、本人曰く“窓際”だった頃、上司から言い渡されたのが「人気低迷中の漫才を立て直せ! 谷には漫才プロジェクトのリーダーをしてもらう」ということだった。リーダーというからにはチームがあって、何人かの部下が充てられると思いきや、「他に誰がいるんですか?」と上司に問うたところ、答えは「お前ひとりや」……。

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