「決まった答えがない」激ムズ東大入試の狙い 難しいことを「簡単な次元」に落とし込めるか
逆にこの問題が解けない人は、この言葉を難しく考えて、日常生活や私たちの普段の情景とは離れた方向性で考えていく傾向があります。「科学技術の発展で人々は加工された映像を見ていて〜」とか、普段の私たちとは全然関係のない方向性で考えていってしまうと、解くことが難しくなってしまいます。
ちなみにこの問題の解答として多くの東大生が答えていたのは、「偏見」をもとにした解答でした。
「自分の好きな人の行動は、どれも素晴らしいものに見えてくる。でも、同じことを自分が嫌っている人がやっていたら、酷い行為に見えてくる。このように、人は偏見を持っているので、この言葉のとおり『人は見ようとしたものしか見ない』のだと思う」
こんな解答が多かったです。これもやはり、自分の身の回りのこと・自分の普段の生活に結びつけて解答を作っていますね。
難しいことを「簡単な次元」に落とし込めるか
さて、東大がこの問題を出題したのは、「難しいことを難しく考える人」と「難しいことを簡単な次元に落とし込んで考える人」とを見極めるためだったのだと思います。
哲学や文学をはじめ、学問というのはたいてい、「難しいこと」を学びます。
「小中高は答えのある問いを考える場所で、大学は答えがない問いを考える場所だ」なんてよく言いますが、答えが出ないような難しいことを学び、考察し、答えが出ないながらも仮説を考えていくのが大学でしょう。
そしてそのためには、「難しいことを難しく考える人」だとうまくいきません。具体例を考えてみたり、身の回りのことに置き換えてみたり、簡単な次元に落とし込みながら考えないと、難しいものは難しいままなのです。
また同じように、「答えがあると思っている人」もうまくいきません。「人は見ようとしたものしか見ない」という言葉に、「これはこういう意味の言葉だ」という正解はありません。いろんな解釈があってしかるべきです。ですからこの問題に対して、「この言葉はこういう意味だ」と断言している解答を作った受験生は、不正解になってしまうと思います。
この問題は、勉強以前の問題として、このような学問に対するスタンス・勉強との向き合い方を聞いたものだったと解釈することができるのではないでしょうか。
そう考えると、この「人は見ようとしたものしか見ない」という言葉自体も示唆的ですよね。勉強に対して「答えがある」という偏見を持って接してはならないというメッセージが隠されているように感じるのは、僕だけではないと思います。
そして「哲学ウォーク」はまさに、「難しいことを簡単な次元に落とし込んで考える訓練」だと言えるでしょう。哲学の言葉に正解はなく、あるのは解釈だけです。いろんな考え方があってよくて、その中で「どういう意味なんだろう?」と考えることができること自体が「哲学」だと言えるのではないでしょうか。
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