ヤマザキマリさん「ウサギの煮込みと作家の記憶」 「質感ある教養」をもたらしてくれた人たちの話

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「マリのウサギの煮込みは最高だよ」と、人前でも絶讃してくれていたのは、あの頃とても世話になっていたピエロ・サンティという高齢の作家と、彼のパートナーであるセルジオ・ミランダというアルゼンチン人の詩人のふたりだ。

このふたりはフィレンツェ市内のバルディ通りという古くて閑静な場所に“ウプパ”という画廊兼書店を営んでいた。営んでいた、といえるほどの事業を展開していたわけではなく、どちらかというとピエロの年金と、そこに集うフィレンツェの文化人たちからのささやかな寄付によってなんとか運営が維持できてきた文芸サロンという趣の集会所である。

それでも出版元としてたくさんの書籍や図録も出していたし、小規模ではあっても絵画の展覧会も定期的に開いていた。私がここに出入りするようになった80年代はともかく、1960年代や70年代にはフィレンツェだけでなく、イタリア中の著名な文学者たちが立ち寄る文化交流機関としてそれなりの知名度もあった。ちなみに“ウプパ”とはフィレンツェのシンボルでもあったヤツガシラという鳥を意味していて、ノーベル文学賞作家でありピエロ・サンティの友人でもあった詩人エウジェーニオ・モンターレの「詩人を中傷する愉快な鳥」という詩に由来する。

人生の甘いも辛いも経験して

私は当時一緒に暮らしていた詩人と、週に何度も、殆ど毎日と言っていいくらい、このウプパを訪れていた。ここへ来れば、豊富な知識や教養を蓄えることができたし、自分の考え方に対する彼らの辛辣な批判は、確実に次の創作への要素となっていた。人生の甘いも辛いも経験し、捻くれ、諦観し、謙虚だったりわがままだったりする選り取りみどりの年輩芸術家や文学者と一緒に集う時間は、大学のような教育機関よりも、私にとってずっと質感のある教養をもたらしてくれた。

たまに夜中まで論議が白熱すると、セルジオが誰ともなくそこに持ち寄る食材で簡単なパスタ料理を作って我々に振る舞ってくれるのだが、たいがいはコストの掛かっていないニンニクと鷹の爪とオリーブオイルであえてある、日本でいえば素うどんに近いようなものだった。しかし、このなんの飾り気もないパスタが沁みるように美味しいのである。

『扉の向う側』より
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