沢木耕太郎「なぜノンフィクションは生まれるか」 松下竜一が和田久太郎を描こうとした理由
松下竜一が和田久太郎を描こうとした理由
松下竜一の『久さん伝』は、大正時代のアナキスト和田久太郎の生涯を描いたものである。だが、「生涯を描く」といっても、和田久太郎にさほど多くの資料があるわけではない。彼が残した書簡と、アナキスト系の紙誌に書き残したいくつかの文章と、運動の周辺にいた人が和田をスケッチした文章くらいであり、それも量的には限られたものでしかない。
しかし、にもかかわらず松下竜一は和田久太郎を描こうとした。実は、その理由は明確には述べられていない。
《大杉栄と伊藤野枝の四女ルイズこと伊藤ルイさんを主題にして、私は二年前(一九八一年)に『ルイズ─父に貰いし名は』(講談社)という作品を書かせていただいたのだが、その執筆にあたって眼を通した関係文献の一つに、和田久太郎の獄中書簡集『獄窓から』があった。アナキズムの研究をしたこともなかった私は、そのときはじめて和田久太郎を知り、深く心を惹かれるものがあった》
だが、なぜ心を惹かれたのかについては明瞭に書かれていないのだ。いや、この『久さん伝』一冊でそれを説明しているのだという言い方もできないではないが、読み手にとっては必ずしも十分とは言えない。人によっては、「ここにこのような人がいた」という書物の域を出るものではないと思うかもしれない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら