松本:グローバリズムがいかに悲惨な結果をもたらすか、というのを40代のプーチンはジッと見ていた。それが、のちに自分が権力を握ったときにオリガルヒに対してどういう態度をとるべきかの指針ともなっていった。
茂木:それはそうなのですが、プーチンはエリツィン政権のときに「国有財産の民営化」に関する仕事をやっています。
松本:ということは、プーチンはオリガルヒに手を貸していたわけですね。
茂木:手を貸したというより、彼らを監督する立場にいたのでプーチンは裏側を見てしまったのでしょう。1997年に、プーチンは論文で「市場経済移行期における資源の戦略的な計画」を発表します。資源については「民営化ではなく、国家が管理するべきだ」ということを、この頃から彼は主張しています。
松本:エリツィン時代のオリガルヒのやりたい放題を見て、これではダメだと思ったということですよね。
チェチェン独立の動きとプーチンの出世
茂木:そのとおりです。そして、もう一点。ロシア連邦の領土であるカフカス(コーカサス)地方でチェチェン共和国の独立運動(第一次チェチェン紛争/1994~96)が起こります。
チェチェン人はイスラム教徒ですが、バクー油田が近いので利権の巣窟です。エリツィンとしてはチェチェンを手放すことはできない。チェチェン独立派を取り締まるために、KGBの力が必要でした。だから、エリツィンのやることは矛盾していたのです。「共産党の独裁に反対する」「ロシア民主化」「KGB解体」などと言っていたのに、チェチェンの独立運動が起こるとKGBに頼るという……。このような状況下で、さらにプーチンの活躍の場ができたということです。
松本:ということは、プーチンはいいポジションにいたということですね。
茂木:はい。プーチンはどんどん出世して、1999年に第一副首相。そして、わずか1週間後に首相になりました。その後、チェチェン過激派がやったと言われているテロが起こります。高層アパートが連続爆破されて、確か300人ぐらい亡くなったのですが、実はよくわかっていない部分があります。
それをプーチン首相が「これはチェチェン過激派の犯行だ」と断定して、いったん独立運動が沈静化していたチェチェンに対して、猛烈な空爆を始めます。これが、第二次チェチェン紛争(1999)です。
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