このころ家康は、小田原征伐への準備の最中でした。
家康としては、娘が嫁いでいる北条氏をなんとか懐柔して上洛させたかったのですが、その願いは叶わず。また秀吉の北条氏討伐の意志も固く、家康としては忸怩たる思いを持っていたでしょう。その最中、実質的に妻と言っていい於愛を失い、形だけとはいえ正室の朝日姫も失うという不幸が重なった家康の心中はいかなるものだったのでしょうか。
戦国時代の女の悲劇
於愛の死の実質的な原因は毒殺などではなく、やはり病死であると私は考えます。
記録には、於愛の死因は疲労や精神的な疲れからくるものであったとされ、いわゆる「気うつ」であると考えられます。とすると朝日姫と同じです。
早くから肉親を戦で失い、夫も戦で失い、家康のもとにあっても度重なる戦、家康自身、本能寺の変や小牧長久手の戦いなど、一歩間違えれば死に至る危機が何度もありました。
そのたびに於愛の精神は、少しずつ削られていったのでしょう。
1628年、すでに家光に将軍職を譲っていた秀忠は、朝廷に働きかけ、亡き母に従一位を贈りました。苦労を続けた母に対する秀忠の、せめてもの感謝の想いだったのでしょう。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら